同修との縁を大切に
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 【明慧日本2015年1月18日】数日前、私と同修は些細な言い合いのために揉めていて、気分が感情的になっていました。同修の自分を見る目つきにも違和感を感じました。その辛さは、言うまでもありませんでした。

 心を静めて師父の説法を読み始めました。師父は『大法弟子とは何か』の中で、「トラブルに遭ったら、自分が間違ったかどうかに関わらず、このことに関して私に間違ったところがあるのか、本当に自分が間違ったのではないかと自らを考え、皆このように考え、最初の念は自らを考え、問題を考えているのです。このようにしない人は本当の大法修煉者ではありません。」と明確に教えてくださいました。

 学法した後、私は自分の認識が大法の要求と合わなくなり、そして旧勢力の仕業に騙されたことが分かりました。ここまで認識すると、私は直ちに座禅して発正念をしました。「私と同修の間を隔てている全ての邪悪生命、邪悪の要素、黒い手、卑しい鬼、邪党の悪霊を消滅します」。発正念が終わった後、突然泣き出してしまいましました。どうしても抑えきれなかったのです。私は主人(同修)に話しました。「私は同修との縁を大切にしない心と、独りよがりの心を見つけました」。主人は「とてもよかったです」と言いました。

 私は正念で自分の身の回りの腐敗した物質を取り除くことができ、体が軽く感じています。明白になった一面は、私と同修は生々世々の間、お互いに支えあったり、心にかけたり、飢餓の時や危うい時、危急存亡の時、私たちは相手のために、犠牲になったり、生死の境を出入りしたり、さらに命まで失うこともありました。このように、一生涯の苦しい長旅をする中、迷いの中で大法を待ち、師父を探していました。今、大法は広く伝わり、師父は私たちの身の回りに、時々刻々いらっしゃるのですが、私たちは大切にしないばかりか、愚かでトラブルを起こしてしまいます。

 私たちは胸に手を当てて自問するべきです。誠実に同修に接しない理由がありますか? どんな顔で慈悲で偉大なる師父に向かい合うのですか? 理由はありません。ここまで考えたら、私は本当に師父と同修に申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。私と同じ過ちがある同修は、自分の欠点を探すべきで、同修の不足に寛容であるように勧めます。私たちは心が通い合っています。手を繋いで、師父の按排してくださった道を歩みましょう。

 このことを通して、私は体得しました。法を正す角度から旧勢力の按排を徹底的に否定すべきで、慈悲に同修を扱うべきです。同修のマイナスの面を認めずに、外に向けて探さないことは、旧勢力を否定することになり、旧勢力を否定することができます。私たちと出会った人、行ったことは、偶然ではありません。私たちは師父が按排してくださったことを大切にしなければなりません。この修煉の環境を大切することによって、私たちは自分を大切し、師父の偉大なる慈悲を大切することになります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2011/10/21/248137.html)
(English: http://www.clearwisdom.net/html/articles/2011/11/5/129216.html)
 
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