明慧編集部『出発点』を読んで感じたこと
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文/中国の大法弟子 真言

 【明慧日本2015年3月25日】昨日、2015年2月17日の明慧編集部の文章『出発点』を読んで、大変驚きました。それと同時に、私は深く考えさせられました。

 名指しされた人について、私は比較的によく知っており、数年前まで彼とよく付き合っていました。昨年、明慧ネットでは、彼に注意を促す情報が掲載され、また、彼が師父のどの経文が彼の為に書かれたものだ、などの話について、当時、私達にも同じことを言っていたため、当事者として、私はこの情報が事実であることを証明できます。同修の善意の指摘は法の立場に立っており、それが法を守り、また彼を愛護し、彼を助けるためのものだと私は思います。

 明慧編集部の文章『出発点』の中で言っているように、「法を心の中に置き、自らの言動を指導する」、そうすべきです。名指しされた人の欠点はまさにそこにあるのではないでしょうか。

 修煉は大法によって、自分の言動を律するものです。しかし、潜在意識の中で、自分の私欲や人心を満足させ、同修の中での「名」や「威信」を優先にし、それを何よりも重要だと思ってはいけません。それは「必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します」[1]となります。

 もちろん、今はまだ最終的に決まっていませんが、しかし、指名された人は、ある意味では、学習者達によって、褒め殺しにされたのではないでしょうか。私達は、簡単に共産党と同じような人を批判する方法と取ってはいけません。それは党文化で、自分の身の安全しか考えず、自分だけをきれいに払い、責任から逃れる方法です。それは修煉ではありません。自分を修めていないからです。私達は法を師にして、是か非かをはっきり区別し、さらに、内に向けて探して、「私達はいったいどこが間違ったか」を探さなければなりません。過ちを犯しても怖くありません。修煉というのは間違いから歩み出すことで、間違ったら改めればいいのです。これは私がこの文章を書く原点です。私が当時誤ったのは、法を学ばないで人を学び、法を師にせず、人を師にするところでした。結局、自分は法を実証する独自の道を歩まず、法に対する自分の独自の見解を悟ることができませんでした。

 それに、もう一つのことがあると思います。それは心の底で、師父のことを本当に師父として見なしているかどうかの問題です。それは師と法を敬う最も根本的で、本質的な問題です。

 師父は「名声に執着するならば、有為の邪法で、もし世間に名を売っているのであれば、必ず口では善いことを言っていても、心は魔であって、大勢の人を惑わし、法を乱します」「色欲に執着するならば、悪い人にほかならず、口で経文を念じていても、品のない目で互いを見ていて、道から遠くかけ離れているのですが、これは邪悪な常人です」[1]と説かれています。

 一部の学習者は、中には一部とても「有名」な学習者も含めて、心の底から師父を師父と見なしているとは限りません。自我の心を膨らましている時、それは極めて危険な時です。「修は己にありて、功は師にあり」[2]を認識せず、むしろ、自分のほうがどれだけ凄いかと思い、甚だしきに至っては、潜在意識の中には、師父を上回っていると思う人がいます。そのような人はすでに旧勢力に隙に乗じられ、すでに心より魔が生じ、魔に騙されています。法を敬わず、師を敬わないのは宇宙の中で最も悪い人です。旧勢力の目的はこのような人を引きずり下ろして、一歩一歩と破滅させ、最後に師父にこのような人を放棄させるのです。

 再び私たち自身のことを考えてみましょう。もし、明慧編集部がこの通知を出さなければ、もし、ある「有名な」学習者が私達に「協力」を求めて来たら、私達は以前と同じように、彼を「とても高い」と見て、積極的に彼に協力することをしないでしょうか? 今回のことは、けっして名指しされた人の1人の問題ではなく、私達自身の問題でもあるのではないでしょうか。十数年にわたって修めて、いったい何を修めて来たのでしょうか。惑わされる中で、是か非かを区別することができるのでしょうか。もし、私達がこの教訓から目を覚ますことが出来れば、これによって、法をもっと深く理解することが出来、修煉の内包をさらに体得することが出来れば、今度のことは私達にとって、悪いことを良い結果に転換できると思います。

 痛く刺されるのを恐れず、恥をかくことを恐れず、肝心な所を回避しないようにしましょう。肝心な時の言動こそ、本当に法をどこまで習ったか、法をどの程度理解したかがチェックされる時です。大波が砂をさらってゆきます。火炎で鍛錬されて、金にも砂利にもなる可能性があります。法を学び、着実に修めれば、金になります。そうでなければ、いずれ淘汰されてしまうでしょう。

 個人的な見識にすぎません。不適切なところはご指摘ください。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「修める者の忌」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/3/6/305905.html)
 
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