文/重慶の大法弟子
【明慧日本2015年5月5日】先日、師父の説法を学んだ時に、わずかながら会得した事がありましたので、書き出し、同修と励まし合いたいと思います。妥当ではない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。
師父は説法の中でこうおっしゃりました。「修煉がよくできている人の場合、その現れとして、この人がわりと精進しているように見えるだけです。精進とは、彼が常に自分の言動、自分の考え方の変化に気をつけており、自分を厳しく要求することが出来、常に自分を厳しく要求することができるということであり、これは個人の修煉の中で比較的精進している人です。」[1]
今までの修煉過程を振り返ると、よく同修達が、他の同修の誰かについて、「修煉がよくできている」と評価するのを耳にしますが、しかし、その「修煉がよくできている」の現われとしては、例えば、修煉期間が長いとか、地区の責任者または協調人であるとか、法理が良く理解できているとか、天目が開いている又は功能が出たとか、多くの真相資料を配った又は多くのプロジェクトを実行したとか、多くの衆生の三退を実現したとか、正念を持って労働教養所などから抜け出した等々があります。これらのことを判断基準とし、その基準を持って同修の修煉状態を測り、甚だしきに至っては、それに達した人を自分の模範としています。本来なら、法を師とし、他人の良くできているところを見て、法に照らし合わせ、自分の心性と比較し、それによって心性を高めていくべきではないでしょうか。
この間、明慧ネットには、『一人の仙人から見た大法弟子』という文章が掲載されました。わが地区の一部の同修はその文章を印刷し、この文章のために単独の資料まで作成し、それを同修の間で広く伝えました。一部の新しい学習者はそれを大法の内容と見なし、繰り返し勉強し、賛美と羨望の言葉を度々口にしました。私はこのようなことを行った同修にお聞きしたいですが、これは修煉の道を誤っているのではありませんか?
最後に、師父の『精進要旨』の「常人の心を放下して着実に修め続ける」を一緒に勉強してみましょう。
「大法が広まるにつれて、大法を認識できる人がますます多くなっているので、わたしたちはある問題に注意しなければなりません。つまり、常人の階級の観念を大法に持ち込んではならない、ということです。新しい学習者も古くからの学習者も、この問題に気を付けなければいけません。法を学びに来た人はいくら学問があっても、商売がどれほど繁盛していても、官職がどれほど高くても、いかなる特殊技能があっても、何らかの功能を持っていても、みな、必ず着実に修めなければなりません。修煉とは殊勝で、厳粛なるものであって、あなたたちのその特殊な常人の心を放下できるかどうかは、皆さんにとって乗り越え難くても、必ず乗り越えなければならない一つの大きな関なのです。いずれにしても、着実に修める弟子として、必ずこの執着を放下しなければなりません。なぜなら、この心を放下しなければ、決して円満成就することはできないからです。
古くからの弟子もこの問題に注意して下さい。法を学ぶ人が多くなってきたなら、新しい学習者が着実に修めるよう導くことを更に重視すると同時に、自己を緩めず、条件が備わっているのであれば、法を学び煉功する時間を増やしてもよいのです。大法の伝統を保ち、大法の修煉の原則を護り、着実に修め堅持することは、一人一人の大法弟子に対する長期に渡る試練なのです。」[2]
注:
[1] 李洪志師父の経文:『各地での説法七』「米国首都法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』