少年時代から青年時代までの修煉による導き
■ 印刷版
 

 【明慧日本2015年7月31日】私は2001年ころに、母と共に大法の修煉を始めました。考えてみれば、私は10年以上修煉してきた古い修煉者です。しかし、私は真面目に修煉していませんでした。私は幼いころから病弱で、7、8歳頃に、ある人に邪な術で寝たきりにさせられてしまいまいした。3日3晩、何も飲まず食わずで真っ青な顔色をし、点滴も効果がありませんでした。これに母は焦りだし、仕方なく叔母の家に連れていかれました。

 しかし、叔母の家にいても体に全く力が入らず、顔色も悪いままでした。自分の記憶の中では、その晩は泣きながら目を覚まし、大声で泣きわめいていました。その時、母と叔母は煉功しており、私を見た叔母は、「絹ちゃんも一緒に煉功する?」と私に聞いたので、私は泣きながら煉功すると答えました。そして、答え終えた瞬間、体中のすべての症状が瞬くまに消え去ったのです。これを見た母と叔母は大法がもたらした奇跡と師父の慈悲を確信しました。それから、私は修煉の道を歩み始めました。

 小学校時代

 幼いころは雑念がありませんでした。母が言うには、ある時 母に煉功しようと言われましたが、私は口をとがらせて断りました。これを見た母は怒り出し(当時、母も自分を良く修めていませんでした)、なんとしても私に煉功させようとしました。私は不機嫌になりながらもその場に座り、第五功法を始めました。優美な煉功音楽を聴いているうちに、すべての不愉快なことを忘れることができ、穏やかな気持ちで煉功の状態に入りました。そして、煉功を終えると、とても美しい景色と、黒い手が血に変わったこと(当時は黒い手の意味をまだ知りませんでした)を母に話しました。

 当時の私は、時々、母たちと共に真相資料を配りに出かけました。家で真相資料を作ろうと、母から作り方を教わりました。支度を整えて、母と出かけました。夜が更けると、ほとんどの店はカーテンを閉めました。私は母と叔母の3人で協力し合い、真相資料を自転車の前かごに入れたり、上着のポケットに入れて、お店の入り口で靴紐を結ぶふりをして、真相資料を店内に置いたりをしました。

 週末になると私は白い紙を取り出し、ペンで葉っぱや花や草などの絵柄を描きます。真ん中の空いたところに、きれいな字で「法輪大法は素晴らしい」「真・善・忍は素晴らしい」と書きます。書き終えるたびに私は嬉しく感じます。そして、「法輪大法は素晴らしい、真善忍は素晴らしい」を覚えるようにと、近くの友達に言い、彼女たちも覚えました。こうした私を母は褒めてくれました。

 小学4年生の時のある晩、私はある夢を見ました。その夢は今だはっきりと覚えています。

 夢の中で、私は金色に輝く砂浜に座っていました。一粒一粒の砂はまるで黄金のようにキラキラと輝いていました。海水は青く透き通って、まるで水晶のようです。遠くで金色の光が海面に反射し、青い海面には薄い金箔が張られたようにとても美しい光景です。私は2人の友達(ほぼ自分と同い年)と砂浜で遊んでいました。少し時間が経つと、彼らは家に帰らなければならないと私に言いました。彼らの家は海の向こう側にあるようです。2人の子供は海に飛び込み、前へと泳いで行きました。彼らが見えなくなったので、私も海に飛び込み、一生懸命に泳ぎました。金色の光に近づいて、海の真ん中まで来たとき、大きな法輪が天空で回転しながら色を変えていくのが見えました。逆回転もして、七色の光を放っていたのです。私はこの光景に心を奪われ、じっと見つめていました。瞬時に熱い何かが心の中に流れ込んできたのです。

 難関を乗り越える

 成長していくと、じっとしていられなくなり、学法や煉功も身に入らなくなりました。毎日クラスメイトと出かけることを考えていたため、学法と修煉にすっかり気を抜いてしまいました。時には、こっそりと母のお金を持ち出してお菓子を買ったり、漫画を買ったりもしました。しかし、師父は色々な方法でこのことを母に知らせ、母にはいつも叱られていました。

 小学5年生の時、従兄と一緒に本を買いに出かけました。帰り道で、ある交差点でバイクに轢かれ、そのまま地面に倒れ意識を失いました。目が覚めると、真っ先に脳内に浮かび上がったのが、「どうして地面の上で寝ていたのだろう」という言葉でした。バイクのおじさんに大丈夫かと聞かれて、私は泣きながら「大丈夫です」と言い、そのまま家に帰りました。家につくと、母たちが驚いていました。先に帰った従兄が事情を話し、母たちが私を探しに行きましたが、見つからなかったそうです。

 その後、後頭部が卵くらいの大きさまで腫れ上がり、頭もくらくらして、とても苦しかったでのす。きっと事故で脳震盪になり、早く病院に行った方がいいと常人の叔母さんたちに言われました。しかし、母と叔母は、これは私が乗り越えなければならない難関であると悟り、師父が守ってくださるから、大丈夫と私に言いました。

 その期間は、頭がはっきりせず、母と叔母は毎日学法と煉功をするように励ましてくれました。同修のおばあさんも私のために毎日、発正念をしに来てくれて、「師父がおられるから大丈夫です」と言ってくれました。それから私は泣きながら、学法と煉功を続けました。学校も休みました。そして事故から5日後、頭は相変わらず重く感じるものの、前よりはよくなったので、又いつもの生活に戻り、学校に復帰しました。

 学校に復帰した翌日の昼に、通学途中で、頭が何かに押されているかのようで、とても苦しく感じました。その時、私は十分な正念で「私は法を実証するために来たのだ」と思い、力強く頭を左右に振りました。瞬時に、黒い何かが放り出され、頭もはっきりしました。それから数日後、後頭部の腫れも少しずつ小さくなっていき、1カ月もたたないうちに米粒のような大きさになり、耳の近くまで移動したのです。

 母を救援

 2007年3月の事でした。母と叔母が悪人に陥れられ、警察に監禁されてしまいました。その日は学校に行く途中で、母たちのお店によりました。祖母がそこで泣いているのを見ました。事情を聴くと、母と叔母が警察に連行されたので、他の叔母さんたちに連絡するようにと言われました。私は怖くなり、同修でもあるほかの叔母たちに早く来るようにと電話しました。

 当日の夜、私は2人の叔母と母たちを返してもらうよう警察署に行きました。当時の自分は正念が強くなかったため、怯えていました。そして、その晩、母と叔母は警察から、留置場に連れていかれたのです。

 翌日、同修でもある祖父と祖母と2人の叔母がこのことについて交流しました。祖母と私が母たちを返してもらうよう警察署に行き、他の同修は発正念するべきと決めました。午後、祖母と警察署に向かいましたが、道中、私は怖くなって足がガタガタと震えだし帰りたくなりました。警察は、とある裏道の中に建てられており、大通りからは200~300メートルほど離れています。まだ到着していないのに、うす暗い感じがしてきました。そして、警察の建物はまるで手を大きく開いた化け物のように感じ、怖くてとても耐えがたかったのです。

 祖母は何度も励ましてくれました。その時、師父はある詩を私の頭の中に入れて下さったのです。「汝に恐れ有らば、它はじきに抓む。念を正しくすれば、悪はじぐに崩る。[注1]」その一瞬で、すべての恐怖がなくなり、自分が強くなったという感じがしました。そして、心の中で「私は修煉者たち(母と叔母)を救援しに来たのだ」という念だけを強くし、恐怖心を解体しようと黙々と発正念をしました。すると、自分の中にある黒い物が少しずつ減少していったのを感じたのです。

 私は祖母と何日も続いて警察に行きました。祖母は「娘を返せ」という書かれた札を首から下げていました。私と祖母は多くの人の目線をひきつけていました。人々からの質問をはっきりと答えると、皆が、無実の人を連行した警察が悪い、いいこと一つもしないと警察を非難しました。善良な人を迫害すればそれ相応の報いがくると、私と祖母の味方をしてくれている人もいました。警察では警官が怯えはじめ、授業に戻るよう学校に電話しましたが、「母がいないと授業料を払ってくれる人がいません」と言った私に、警察たちは何も言い返せませんでした。母たちを連行したことが公になるのを恐れた警察で、ある婦警が祖母を地面に押し倒しました。しかし、祖母は強い正念を持ち、少しも恐れませんでした。後に聞くと、当時、祖母は法を暗唱していたので、押し倒されたときはまるで綿の上に座っているようだったそうです。それは師父が祖母を守ってくださったと悟りました。2人の叔母はほかの近所の同修たちと共に発正念をしていました。そして、我々は不法に母と叔母を監禁した留置場の近くに集まって、発正念をしました。

 1カ月後、母と叔母は悪の巣から解放されました。

 中学校時代

 時間の流れは早く、あっという間に私は中学生になりました。中学校2年に上がると、宿題が多いため、勉強にのみ集中し、学法が疎かになってしまいました。毎日0時になったら眠り、朝6時の発正念の時はよくあくびをしました。学法するときも、師父の説法が心に入らず、気を付けていなければ、そのまま寝てしまうこともありました。そして、常人の心に流されて、私は小説や漫画にもはまるようになったのです。一時期、漫画などのイラストばかり描いていました。このことで何度も母に言って聞かされました。自分が真面目に修煉していなかったことで よく母とけんかになり、成績も上がったり下がったりしていました。この状態は長い間ずっと続いていました。師父は母の口を借り、別の方法で私に自分の足りないところを発見させてくださいましたが、少し時間が経つと またいつもの自分に戻ってしまいます。この状態は高校に上がるまで続きました。高校に入ると、母に常人のネットを見る時間を制限されました。宿題を終えると、神韻や明慧ネットなどを好きなだけ見てきたことで、ゆっくりと変わってきたのです。

 高校1年の夏休みは、忙しいながらも楽しく過ごしていました。時々、朝に母と一緒に真相資料を作り、母が仕事に行くと自分で法を勉強したり、煉功したりし、午後には宿題をやり、夕方になると、母と叔母と3人で真相資料を配りに出かけ、帰ってきた時にまた1時間皆で学法をし、それから、交流をしました。新しい電話番号があると、先にそれを編集してから、神韻やネットからダウンロードしたビデオを見たりします。常人のネットを見る時間を制限したことで、ネット上の漫画や小説にも興味がなくなりました。

 ある晩、私は「明慧焦点」(「孔子への批判」や「自殺の真相」、そして、小学生の教科書)というビデオを見ているとき、学生の集団署名のシーンを見て、ふと自分が小学生の時も同じようなことをしたのを思い出しました。ただ、それが何だったのかは覚えていませんでした。その時はただ面白がって、友達と署名しました。今ならわかります。それは、もしかすると大法を批判することに関連していたのです。思い出すとすぐに母に告げました。母と交流したのち、当日声明文を書きました。

 その後、私が声明文を書いた後、瞬時に私の空間が清められたという感じがしたと母に言われました。以前は、私の空間がどこか汚れていたそうです。漫画や小説などが原因だと思っていましたが、まさか小学校の時の署名が関連しているとは思いもしませんでした。

 ここで私は自分とだいたい同い年の同修に注意してほしいことがあります。小学校の時に、類似の署名をしたかどうかを思い出してください。当時は6、7歳でしかなく、先生の言うことは何でも聞き入れてしまい、良し悪しの区別もできなかったと思います。しかし、もし、このような署名をしたことがあるのならば、大法を誹謗中傷したことをすべて破棄し、今までの心ない過ちをすべて破棄しますと、声明文を書いてください。そうしなければ、思いもよらない結果に及んでしまいます。私自身ははっきりした変化など何も感じませんでしたが、母に言われて、声明文を書いた後の私は完全に変わったそうです。

 そして、私と同年齢の青少年の大法弟子はできる限り常人のネットを見ない方がいいです。「人類の道徳は一瀉千里ですべり落ちつつあります」[注2]と師父は説かれました。常人の物を多く見ていると、知らないうちにつられてしまいます。時間があれば、明慧ネットに載っている交流の文書を読んでいる方が、我々の修煉にいいでしょう。最後に、もっと学法し、真面目に学法し、しっかり自分を修め、保護者の同修の意見に耳を傾け、ネットに載っている交流文章をたくさん読み、これからの修煉の道をしっかり歩んでいきましょう。

 妥当でないところがあれば、同修の指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟二』「何を恐れる」
 [2] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「退職した後に修煉する」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/2/3/303932.html)
(English: http://en.minghui.org/html/articles/2015/2/12/148322.html)
 
関連文章