同修と協力し 共に精進する
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文/中国の大法弟子 燕子

 【明慧日本2015年11月21日】私は三つの学法グループの法輪功の資料の制作を担当しています。3年前から年末になると、一般的な資料の代わりに、新年のお祝いの卓上カレンダーと法輪功特製の福袋を作っています。特に福袋の内容は豊富で、包装が綺麗で、毎回人々から良い評判を得ています。ただし、2種類を同時に年末に作ると、量が多いため、とても慌ただしのです。そこで、今年は8、9月の忙しくない時期を利用して、前もって福袋の印刷を終わらせました。そして、印刷したものを同修の家に持って行き、袋に仕上げてもらうことにしました。

 私が印刷したもの2千部あまりを同修の家に届けた後、ちょうど家に親戚がやって来ました。親戚が滞在していた1週間、同修の家に行くことができませんでした。私は親戚が帰ってから同修の家へ行きました。すでに2千部あまりの福袋の材料は学法グループの同修に分けられ、それぞれが家に持ち帰り、福袋を作ったと同修から知らされました。しかし、出来栄えはほとんど良くありませんでした。経験のない同修たちが方法の分からないまま、想像に任せて作ったのです。

 私は出来上がった福袋を見て、「こんな雑な作りで人々に気に入ってもらえるでしょうか? 材料が無駄になったのではありませんか? 2千部を印刷した時間も台無しに・・・」と考えれば考えるほど腹が立ってきました。ついに「急ぐことでもないのに、なぜ私に相談もしないで、手配したの? これをどうすればいいというの? やり直すのはとても難しいのではありませんか?」と同修を責めました。

 同修は謝るどころか、私よりも腹を立てて「あなたはなぜいつもそんなに独断的なの? なぜ何もかもあなたが決めなければならないの? 忙しいあなたを見て、私たちは手伝ったのに、人の気持ちも知らないで、逆に怒るなんて。それならこれからは1人でしてね。私たちはもう何もしません」と怒りました。

 私はその時、何も言いませんでしたが、心の中では「綺麗にするのは衆生を救い済度するためではありませんか? どこが間違っているのですか? しかも、資料拠点の仕事はずっと私一人でしてきて、いつ手伝って欲しいと要求したでしょうか? このたびはあなたがやりたいと言ったから、教えてあげたのに。何回教えても全然マスターできないくせに、他の人に方法を教えるなんて。こんなものを作って、私に怒るのですか? 手伝ってくれるどころか、ありがた迷惑だわ!」と思い、心中穏やかではありませんでした。

 他の同修もあれこれ言って、結局みんな気まずい思いで学法グループを去っていきました。

 家に帰って、考えれば考えるほど、腹が立って、夕食も食べませんでした。何もやりたくないので、法を勉強しましたが、心は平静になれず、雑念がいっぱいでした。正念を発して取り除こうとしても効果はありませんでした。ふとなぜ師父にお願いしないのかと気づきました。

 その瞬間、師父の法が直ちに頭に入ってきました。「修煉する人 自らの過ちを探し 各種の人心取り去ること多し 大なる関小なる関、落さんと想ふべからず 正しきは彼 過ちは私 何を争ふものか」[1]

 私は一回また一回とこの法を繰り返し大きな声で暗誦しました。心が次第に落ち着いてきて、最後には広々として明るくなりました。大法は本当に不思議です! 師父ありがとうございます!

 翌日、私は同修の所へ謝りに行きました。しかし、同修はどうしても許してくれず、説明しても聞き入れてくれませんでした。師父の法が再び頭に浮かんできました。「強辯に遇えば争論す勿れ 内に向けて因を求むは修煉 釈明しようとすればするほど心重し 坦懐にて執着無ければ知見出づ」[2]

 私は黙って帰ることにしました。帰る道すがら、同修の言葉がずっと耳元で響いて、私はとても辛い気分でした。私は本当に同修が言ったような人ですか? 内に向けて探しながら、家に着きました。表情の暗い私を見て、夫が「どうしたの?」と聞いたので、私は「私は独断的なことをしていますか?」と夫に聞きました。夫は「そうだね」と答えました。さらに「私は独りよがりですか?」と聞くと、夫は「そうだ」と答えました。「私は人を軽蔑していますか?」「その通り」「私は人を信用しないですか?」「間違いない」・・・と答えました。

 私はどうしてこのような人なのでしょうか? これらはすべて党文化のものではありませんか? それなのに、私はどうして気づかなかったのでしょうか? 独断的なんて、共産党こそ独断的、独裁的ではありませんか? 独りよがりは、自分に執着しているという意味ではありませんか? 他人を軽蔑するのは、すなわち嫉妬心であり、人を信用しないのは、猜疑心ではありませんか? すべての大法弟子は師父が見護ってくださっているのに、同修を信用しないとは、つまり師父と大法を信じないことではありませんか?

 ここまで考えて、私はやっと目が覚めました。法に符合しないものは要りません。取り除きます。全て正さなければならないと思い『共産党についての九つの論評』を読み、そして正念を発して党文化を取り除きました。法をよく学び、それにつれて法理も分かるようになり、師父のご加護を得て、正念もますます強くなりました。

 また集団学法の日がやってきました。私はまず同修に謝りました。今度は同修も私に謝りました。師父の非常に巧みな按配で、私たちを隔てた旧勢力の妨害を取り除いたうえ、私の党文化も取り除くことができました。そして、このトラブルの中で私も同修も向上することができました。師父に感謝いたします! そして、私たちは出来栄えの良くない福袋を直して、とてもきれいに仕上げました。

 このことからすでに1年が経ちました。私と同修はそれからとてもうまく協調できるようになりました。カレンダーと福袋もいつものようにとても人気がありました。

 師父のご加護の下で、私たちは師父が法を正すことを手伝う道で、互いに協力し合い、共に精進し、道はますます広くなっています。

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟 三』「誰が是誰が非」
 [2] 李洪志師父の詩:『洪吟 三』「辯少なしに」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/14/317137.html )
 
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