怨みを持てば、慈悲の心は生まれない
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文/海外の大法弟子

 【明慧日本2016年3月24日】怨みという物質は修煉者が慈悲を修める障害物となっています。怨みを持つ人は発言する際、往々にして自分の立場に立って物事を考え、自分は正しく、自分は悔しいと言うのです。本質から言えば、それは利己的で、他人の賛同を受け、自我を実証し、他人の同情を得ようとする要素があり、マイナス思考で物事を考えているのです。

 師父はおっしゃっています。「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います。善人は慈悲心が常にあり、憎むことなく、恨むことなく、苦をもって楽とするのです。覚者は執着心がまったくなく、幻のために迷っている世人を静かに観ています」[1]

 怨む心は私たちの日々の生活の中の津々浦々に存在します。たとえば、小さい頃、クラスメートの誰かがよく接してくれなかった場合、あるいは隣のおばさんが嫁に良くしてもらえないと母に愚痴をこぼした場合、または会社の上司から不公平な待遇を受けた場合などなど、徐々に多くの観念が形成されてきます。

 師父は説法の中でこうおっしゃっています。「ある種の観念が形成されると、人の一生を支配し、その人の考え、ないしその人の喜怒哀楽を左右します。これは後天的に形成されたものです。時間が経つにつれ、この観念は人の思想に溶け込み、本当の自分の脳に溶け込み、人間の性格を形成してしまいます」[2]

 自分の例を挙げてみます。ある日の早朝、母から電話がありました。弟夫婦の言動に不満を持つ母の話を聞いているうちに、私もイライラしてきて、親孝行をせず、嫁を庇うために母に不適切な言動を取った弟を叱責しようとも思いました。そのとき、脳裏に「佛家によれば、常人の中のことは、すべて因縁関係があります」[3] という師父の説法が浮かんできました。私は憤りを感じた心を落ち着かせ、情に動いた自分に気づきました。

 数日後、母から再び電話がかかってきて、弟に自分の言った愚痴を伝えないようにと言われました。私は信頼されていないと寂しさを感じ、「ことの重要性ぐらい分かっていますよ。気になるなら、今後私に愚痴をこぼさないで下さい」と言って電話を切りました。その後、自分の言い方によって母が傷ついたのではないかと思い、後悔しました。自分こそ、親孝行をしていないのではありませんか?! 師父は私達にこう教えられています。「人類社会のすべてのことが情から出ています。この情を断ち切らなければ、修煉することはできません。情から抜け出すことができれば、誰もあなたを動揺させることができず、常人の心があなたを動かすことは不可能となります。それに取って代わるものは慈悲の心であり、より高尚なものです」[3]

 事の発生は偶然ではないので、私はこの間の出来事を思い起こし、内に向けて自分の執着心を探して見ました。数日前、台湾法会に参加した際、同修と意見が対立して、議論の末に「お好きなように」と同修から言われ、とても傷つきました。

 私はただ事が良く運ぶように、もっと完璧に行われるようにと思って提案しただけなのに、なぜ同修に理解されないのかと悔しく思いました。他人に理解されないと感じるたびに、私は不満に思い、怨み言を口にしました。長い間、この怨む心が私の慈悲を修めることを妨げたことに気づきました。思えば、今まで夫と意見の相違があるたびに、最後に彼に言われるのも「お好きなように」でした。内に向けて探し、自分には闘争心、悪く言われたくない心、他人を変えようとする心、自我を実証する心、賛同されたい心、そして勝気な心があることに気づいたのです。

 同修の口を借りて、師父は私に自分の内側に深く隠されている良くない物質を探すよう悟らせてくださいました。私は心から師父と同修に感謝しました。それらの人心を見つけて間もなく、母から電話がありました。弟の嫁は他人から陰口を聞き、母を誤解しましたが、今は2人が仲直りしたそうです。

 このことを通じて、私は徹底的に怨む心を取り除いて初めて善や慈悲を修めることが分かりました。師父はこうおっしゃっています。「慈悲は修煉によってできたものであり、意識して見せるものではありません。慈悲は心から発したものであり、他の人に見せるためのものではありません。また、慈悲は永遠に存在するもので、時間と環境によって変化するものではありません」[4]

 今日、ある物語を読みました。ある師父のもとに、怨みをよく言う弟子がいました。ある日、その師父は弟子に市場から1袋の塩を買わせ、その後一握りの塩をコップに入れて味を見てみるようにと言いました。味の具合を聞かれた弟子は、苦いほど塩辛いと答えました。次に、師父は弟子を湖のほとりに連れて行き、残りの塩を全部湖に入れて、湖の水を弟子に一口飲ませ、「塩辛いか?」と聞きました。弟子は「いいえ」と答えました。師父は微笑んで「生命の苦痛が大きいか小さいかは、あなたの器の大きさによります」と言いました。

 そうです! 修煉者は絶えず人心を取り除く過程で自分の器の容量を拡大しているのです。同修の良い所をよく見て、他人を理解する心で物事を考え、いつも相手の立場に立って相手を配慮することができれば、師父のおっしゃる通りの「他人を先に、自分をあとにする」[5]を実行できます。これが慈悲の現れです。

 修煉体験を書く途中、私は慈悲の深層に大法の威厳があることにも気づきました。師父はこうおっしゃっています。「大法弟子としての善がなければ修煉者ではなくなり、大法弟子は法を実証することができなければ大法弟子ではなくなります。邪悪を暴露しているときも、衆生を救っており、自らの世界を圓満しているのです」[6]

 以上は個人の次元での認識ですが、妥当ではない部分があれば同修のご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「境界」
 [2] 李洪志師父の経文:『轉法輪(卷二)』「佛性」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [4] 李洪志師父の経文:『各地での説法四』「二零零三年ワシントンDC法会での説法」
 [5] 李洪志師父の経文:『精進要旨』「佛性に漏れなし」
 [6] 李洪志師父の経文:『精進要旨二』「『大法の威厳』についてのコメント」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/3/5/324975.html )
 
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