同修に傷つけられた時、どう乗り越えるか
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文/中国の大法弟子・法童

 【明慧日本2016年4月13日】同修の言動に傷つけられた体験は、大なり小なり多くの修煉者も経験したことがあると思います。特に中国大陸において、修煉環境はとても複雑です。その「傷害」に正しく対処できる人もいれば、耐えきれない人もいて、甚だしきに至っては、中国共産党の残酷な迫害にも屈したことがないのに、同修にもたらされた傷害を長期にわたり突破できなくて、意気消沈してしまう修煉者がいます。

 ここ数年来に出遭ったこれらのことを例に上げ、この厳粛な問題を切り開きたいと思います。

 私は2004年に大法に出会って、修煉を始めました。修煉を始めた当初から、法輪功への迫害の真相資料を作って配っていました。2004年にちょうど『中国共産党に対する九つの論評』が発表され、修煉前から中国共産党の邪悪をよく知っていたため、何の抵抗もなく『九評』を受け止めました。

 私がはじめて迫害に逢ったのは、2008年の北京オリンピックの時期で、あの悪名高い「北京労働再教育人員仮留置場」に20日間拘禁されました。私はいかなる保証書も書かず、ずっと「法輪大法は素晴しい、真・善・忍は素晴しい」と叫んでいたために、数回も辛い灌食の拷問に遭い、鼻からチューブを入れられ食物を無理矢理に注入されました。警官はまた私を連日寝かせず、40時間近くトイレに行かせず、終いにはとうとう仕方なく、ズボンの中で小便をしたこともあります。そんなことがあっても、私は少しも「修煉はこれほどまでに辛くて、難しいものだ」などと思ったことなどありません。それどころか、修煉の偉大さと殊勝さを深く感銘しました。

 出所後、私はやむを得ず引っ越をして、もとの修煉環境を離れました。新しいところは、年長、女性同修が多い環境です。そこで、私の学歴が割と高くて、また経済力や技術力もあり、熱心さもあるため、自然と多くの大法プロジェクトを引き受けました。同修からのあれこれの傷害もそこから始まりました。大多数の同修の私に対する態度は、依存しながらも嫉妬していました。技術面で私に依存するのはまだ理解できますが、どうして嫉妬するのかと読者は思うかもしれませんが、それは、修煉者の間でも嫉妬心が存在しているということです。

 当時の私は、自分の根本的な執着心がまだ見つからず、情と名に対する執着がまだとても強くて、大法の仕事をやる背後に自分自身を実証したいという思いも存在しているため、同修たちの依存しながらも嫉妬するという態度について、どうしても法理の上で理解できませんでした。そのため、修煉の意志がだんだんと消沈していき、修煉状態も悪くなって、どうすれば良いかが分からなくなった時期が、なんと1年余りにも及びました。とうとう旧勢力に隙に乗じられて、2回目の逮捕と迫害に遭いました。今回拘禁されている間に、明らかに1回目ほどの正念を持たず、早く出所して迫害から逃れたい思いが、とにかくとても強かったのです。拘禁中に発正念して、身辺な人たちに真相を伝えて「三退」も勧めていましたが、しかし今回は、切実に「修煉はこれほど難しいものなのか」と感じました。当時、迫害を訴えるために、断食をしていたことも関係あると思います。

 断食を経験した同修は、きっと断食の危険性を分かっていると思います。強い正念を伴わなければ、あんな険悪な環境の中で、断食することはとても危険です。とうとう最後には、私のお腹に腹水がたくさん溜まって、見た目では妊娠9ヶ月のようにお腹が大きくなりました。所内で死なせるのが怖くて、警官らは私を出所させました。出所して実家で2ヶ月静養した後、更なる迫害を逃れるため、仕方がなく私は地元を離れてA市に行きました。

 私が拘禁されている間、地元の同修が、留置場の近くに来て発正念をすることや、私の両親を見舞いに来ることなど、一度もありませんでした。それどころか、同修の間で、私の実家付近に7、8人の私服警官が潜伏している噂、実は1人もいないのですが、噂が広まり、現地の同修たちに「修煉に隙があるから逮捕に遭い、また断食というやり方はそもそも間違っている」というようなレッテルを貼られてしまいました。

 転々としてこの小さな町・A市に着いた時、私はほっとしました。しかし魔難がここから始まるとは、夢にも思いませんでした。現地の主要な協調人・陳さんに会いました。陳さんは60代の男性で、見たところとても落ち着いていて、和やかな年輩者の風格の持ち主です。陳さんは1995年に修煉を始め、聞くところによると、数回にわたって逮捕され迫害をされたことがあるようです。当時、私は陳さんをとても尊敬していました。

 しかし夢にも思ってみませんでしたが、1ヶ月立った頃、陳さんが私を見る時の目つきが、おかしいことに気付きました。陳さんはだんだんと意味の曖昧な言葉をかけてくるので、私は婉曲に「しっかり修煉して、色欲の間違いを犯さないように」と忠告しました。やがて陳さんは「こんな自分は、充分あなたに釣り合うと思う」と話し出し、私は腹が立ち悔しくて悲しくなり、このアパートを出ようと思って、A市に来てから知った数人の女性同修に助けを求めたのですが、全部きっぱりと断わられました。

 当時の私は修煉して以来、最も苦しい窮地に陥りました。ある日、私は涙を流しながらこのよく知らない町を、一日もさすらいながら心の中で「師父よ、私はどうすれば良いのでしょうか」と師父に尋ねました。獄中で断食をした時でも、強制的に食物をチューブで注入されて窒息しそうな時でも、私は一度も涙を落したことなどありませんが、今回、同修にこれほど冷たくされ、深く傷つけられてしまいました。

 あれは3年前のことです。私の修煉はまだよくできていないため、このことを思い出す度に泣かずにいられる状態に回復するまで、3年もかかりました。この3年の間、その関を乗り越えるために私はよく師父に加持を願って、どれほどの迷惑をかけたでしょう。それでは、同修に傷つけられたらどのように正しく対処するかについて、ここで自分の考えたことを冷静に整理したいと思います。私と似たような経験を持つ同修、特に意気消沈になった同修たちに参考にして頂きたいと思います。早く意気消沈の状態から抜け出して、修煉当初の情熱を思い出し、全身全霊で「三つのこと」をしっかりと行い、自分の使命をやり遂げ、誓約を果たすことを切に望んでいます。

 まず、法理に踏まえて「同修」という関係の本質を、厳粛に認識する必要があると思います。一個人の所見ですが、「同修」という関係の重点は「修」にあって、私たちは修煉者であるがために、密接に接触する協同関係を結んだのです。どこでも同じだと思いますが、「同修」と称される人の中に、長期にわたって真に修煉していない人、着実に修煉していない人が多く存在しています。前文に言及した協調人の陳さんは、私がD市に行く前に、長期にわたり現地の女性同修Aさんと曖昧な関係を保っていて、結婚まで計画し、2人とも修煉してから最初の配偶者と離婚しました。それから、Aさんが心神喪失になったため結婚は取りやめになりました。私はD市に行った時、AさんはD市を離れてなんと1ヶ月しか立っていませんでした! 私が陳さんのちょっかいを断ってそのアパートを出てからすぐ、陳さんはもう一人の女性同修で、5年間刑務所に投獄されて出所したばかりのBさんを、そのアパートに住ませました。Bさんはもともと地元の人間で、迫害を受ける前から陳さんの歓心を買うためにずっとAさんと暗闘していました。それから、陳さんはまたBさんと曖昧な関係を保って、よく二人きりで出入りをしていました。1年後、二人は同時に連行されて5年の実刑判決を言い渡されました。一緒に連行された同修は、十数人にも及び、複数の資料拠点は破壊されました。

 私に言わせれば、陳さんのような人は根本から大法弟子とはいえず、修煉者ではありません。このような人に出会ったら、直ちに避けるべきです。たとえ陳さんが傷ついたにしても、全く気にする必要はありません。

 中国の大法弟子ならば、同修の間に起きた内部消耗(同修間のトラブルや、人心などによって、大法を実証する時間と精神力を削ること)をきっとよく知っていると思います。多くの人心を抱えながら、「同修」という関係に不純なものを持込み、「同修」という関係の神聖さと純粋さを汚してしまいかねません。私自身もそうだったのですが、以前、私は同修間の和気藹々の関係を重視しすぎ、皆と一つの全体になり、大法プロジェクトをしっかりと行うため必要と思っていましたが、実際には、私の出発点もそれほど清浄ではなく、求める心を抱えていました。求める心があれば、すぐに傷つきやすいと感じます。その時の解決方法は、無条件に内に向かって探すほかありません。

 多くの大法弟子もこのような状況に陥った経験があるのではないかと思います。つまり、長い間ある次元に留まって突破できず、学法しても新たに法理を悟れず、向上できないため、だんだんと同修の間の各種の活動を、とても重要視する傾向にあります。例えばグループ学法や、一緒に大法の仕事をすることや、一緒に出かけて真相を伝えることなどです。私たちの地元では一週間に数日、真相を伝えるために出かける修煉者は、精進しているといえます。しかし、グループ学法であれ、真相を伝える活動であれ、修煉には基準があって、「心性の高さは功の高さ、これは絶対の真理です」(『轉法輪』)。多くの修煉者はこれらの事をする時に、ただ決まったやり方で事を進めて、100パーセントの正念を投じたわけではありません。

 それに関して、数年来ずっと単独で真相資料を作る私には、深い感銘があります。最初の頃、コンピュータやプリンターの使い方と修理の仕方をよく知らないため、全力で対処して、とても大きい心血と体力を払いました。しかし、すべてがうまく運ぶようになってから正念が緩み、大法の書籍や真相資料を印刷する時、決まったやり方で仕事を進めるようになり、印刷しながら頭の中で妄想を走らせる余裕も出てきたました。そうすると、真相資料は衆生を救い済度する力を持たなくなると思います。どのような大法プロジェクトをやっても、いったんそのような状態に入ると、抜け出すことがとても難しいのです。長期間抜け出せないと、更に表面の形式を重視しがちで、トラブルに遭うと表面の問題の解決に目を奪われがちで、修煉者の立場で、根本である心性から問題を解決することを忘れ、どうしても同修間のトラブルを起こしやすくなります。

 そのような情況が現れたなら、自分の根本的執着心はどこにあるかを、掘り下げて探す必要があります。根本の執着心が見つかってこそ、はじめて同修との関係を正しく対処でき、それで、いわゆる同修に傷つけられる問題も、すらすらと解決できるのではないかと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/1/2/321686.html )
 
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