プリンターが引き起こした騒ぎ
■ 印刷版
 

 【明慧日本2016年8月28日】今年のお正月を過ぎたある日の夜、私のプリンターが何の兆候もなく、突然電源が切れて、インクカートリッジが働かなくなりました。最初、それほど気にせず、もう一度起動すれば、問題は解決できるだろうと思っていました。しかし、翌日、起動しても、全く反応はなく、これは大変だと初めて問題の深刻さに気づきました。内に向けて探し、正念を発し、他の同修と同じようにプリンターとコミュニケーションを取ったりもしました。しかし、いずれも効果はありませんでした。その後、技術を担当する同修に修理を依頼しました。同修は、プリンターのマザーボードも、プリントヘッドも壊れていて、修理するには大変手間がかかると言いました。私の気持ちはさらに重苦しくなって、同修の大切な時間を無駄にしたことを申し訳ないと思うと同時に、自分の修煉状態を恥ずかしく感じました。その時、自分の問題は何なのか、まだはっきり認識していませんでしたが、プリンターの故障は自分の修煉に関係があることはなんとなく感じました。

 党文化の考えを取り除く

 その後、グループ学法の時、遠方から来た同修のZさんに会いました。Zさんのところでは資料が少ないため、技術を習って、資料点を作りたいという話をしてくれました。私は二つ返事で受けて、彼女がパソコンを用意できたら、私は資料の作り方を教えると約束しました。そこで、Zさんに家に来てもらう時間を決め、技術担当の同修にプリンターを家に届けてもらいました。Zさんは、全くの素人で、マウスの使い方から、起動、シャットダウンまで、ゼロから教えました。その時、夫(修煉をしていない)が帰ってきました。ちょうど夕飯の時間でした。同修が帰ってから、夫は怒りを爆発させて、Zさんはどこの人だと問い詰め、理性を失った様子でした。夫は、「なぜ彼女を家に入れるのか」とか、「お前はなぜ『中心人物』になるのか」と責めました。彼の誹謗中傷を聞いて、私は悪を持って悪を制するという考え方で、彼に言い返しました。すると、彼の魔性がさらに刺激され、夫は段ボール箱に入っているプリンターを持ち上げて、庭に投げ出しました。この突然やってきた嵐は、まるで青天の霹靂のように、酷く私の心を痛めました。まさしく師父がおっしゃった、「しかし、往々にしてトラブルが発生する時、それが人の心の奥深いところを刺すような激しいものでないと効果が上がらず、向上につながりません」[1]のような状態でした。

 その時、私の頭には、正念がなく、悔しさ、怨み、怒りのような気持ちでいっぱいでした。また、冬になると、夫は働かず、マージャンばかりして、夜遅くまで帰って来ませんでした。私は子供2人の面倒を見て、子供に付き纏われ、外にも行くことができず、おばあちゃんの家に子供たちを1週間預けたら、夫は怒られたことを思い出しました。心の中の不満と怒りは言葉で表現できないほど強く、情の渦巻くまま、考えれば考えるほど悔しく思いました。しかし、夫は全く何事も起きていないように、テレビを見ながら、へらへらと笑っていました。その時、また邪悪の罠にはまったことに気づきました。夫は邪悪に利用され業を作ってしまい、私は三つのことを妨害され、情の罠に陥ってしまった構図が見えました。私は、自分の力の無さを悔しく感じ、辛くて居ても立ってもいられず、食卓をすっぽかして、同修の家に駆けこみました。ちょうど数人の同修もそこにいて、みんなは道理や法理をいっぱい話してくれて、また、一緒に『轉法輪』も学びました。私は法を学びながら、ため息をつきました。

 幸い師父からのご啓示と同修たちの助けによって、私は自分の問題をすこし意識するようになり、特に自分に隠されていた党文化の要素を深く認識するようになりました。夫の家族は党文化に深く毒害され、特に夫の場合、軍に5年間もいたので、長い間、党文化と無神論に包まれ、大法の神の奇跡を信じようとしませんでした。私はそれをとても怨んでいました。今回のトラブルの中で、私も党文化の考え方で、悪を持って悪を制御し、「闘う」という方式で問題を解決しようとして、「離婚」まで考えました。また、他人だけを変えて、自分を変えたくなく、他人を軽視する気持ちもありました。普段、自分の家の中での言行もそうでした。いつも上から目線で、命令口調が多く、よく否定的な言い方をして、さらに毒舌で夫と喧嘩をしました。私は昔から汚い言葉を使わない人間でしたが、しかし、党文化では、汚い言葉を使わなくても、人を罵ることもできるので、本当に他人に損失を与えても自分の利にはならず、考えれば考えるほど、恐ろしくなりました。自分は生まれつき内気で、臆病で、静かな性格の持ち主なのに・・・・・・、これだけの汚い心が隠されているとは、思いもよりませんでした。

 怨恨を取り除き、善を体得する

 夫はとても外向的で、家にじっとしていられません。毎日家に帰らない彼のことが気に入りませんでした。さらに探って見れば、それは嫉妬心だと分かりました。私は、夫が他人と一緒にいるのを嫉妬し、自分より他人が大事にされていることを嫉妬していました。今回のトラブルの中で、彼の魔性的な振る舞いもさらに私に傷つけました。普段優しい彼が、急に態度を変え、その変貌ぶりに、私の面子、自尊心は大きく傷つきました。深く隠された「自我」が曝されたのです。師父は「他人を優先にし、自分を後にする」、「無私無我」を求められていますが、私はなぜ旧い観念をしっかり掴んで放したくないのでしょうか。それでは、どうやって新宇宙の基準に到達できるでしょうか。

 翌日の昼ごろ、私はZさんを探して、正午12時に一緒に発正念をしました。15分間、私はずっと涙を流しながら、掌を立て、蓮の手印をしました。私は突然、自分は少しも師父が説かれたことを守らず、真・善・忍を全くやりきれていないことに気づきました。「家族に対してでさえ善の気持ちを持っていなければ、他の人をどうやって助けることができるだろうか」、また「トラブルに遇ったら、『忍』の気持ちもなく、師父の教えを全くどこ吹く風と聞き流してしまったのではないか」と思いました。発正念をしてから、私たち2人はプリントを持って、電動自転車で、同修の家に行きました。しかし、自転車は途中で走ったり止まったりして、同修の家に着いた途端、電気が切れてしまいました。充電をしようとしても、お店は昼休み中で、お金もかかるなどの様々な不運なことで、自分は仕事をする心を放下すべきだと思い当たりました。そこで、私は、もう何もしなくていい、とにかく法を学ぼうと言いました。

 私達は心を静めて法を学びました。師父は「他の人がやったことが良くないと思って心がすっきりしない時に、どうして私の心がすっきりしないのでしょうか、本当に相手に問題があるのでしょうか、それとも私自身の心に問題があるのでしょうかとあなたは考えるべきです。しかもそれをよく考えるべきです。もし本当に自分に問題がなく、確かに相手に問題があれば、善意をもって相手に話すべきです。このようにすると、トラブルが現れてきません。きっとそうなります」、「ですから、くれぐれも注意してください。 いかなる環境においても、特に皆さんが常人の中で修煉しているため、必ずトラブルの中で心性の妨害の中ではじめて、やっと心性を高めることができます。私は説法するたびに、この問題に触れています。ここで法を聞いていた時に皆さんはそれが分かっていますが、外に出るとだめになり、それを忘れてしまいます」[2]と説かれました。

 師父のお言葉の一つ一つに、自分が修煉者であることを再認識させられました。私は心を静めて、自分をこんなに辛く感じさせるのは一体何なのか、と自問しました。一体他人のために考えていたのか? 夫が業を作っているのを見て辛いと思ったのか? 家族や衆生を助けてあげられないから辛いと思ったのか? それとも自分が傷つけられたから辛いと思ったのか? といろいろ考えました。結局、ほとんどは自分の為に辛く感じていたという結論に至りました。私は目が覚めました。恥ずかしくて穴があったら入りたい気持ちでした。

 法を学ぶことによって、頭がはっきりして、怨む心も随分少なくなり、重荷が下ろされたように軽く感じました。夜、家に帰って、私ははじめて夫に詫びて、自分は家族の気持ちを考えず、強引に物事を進めたことを認めました。これは以前の私にとっては、絶対不可能なことでした。夫も彼の心配を話してくれました。彼は迫害されるのを心配し、妻を失うことを恐れて、子供たちに母親を失わせたくない気持ちを話してくれました。

 「情の網」を破る

 家にプリンターを置くことに関しては、夫は一歩も譲りませんでした。一方、私の心に溜まったいろんな執着はまだまだあることに気づきました。なぜなら、大法のことをするのに、夫が強く反対する時、私は相変わらずすぐに怒りが心頭に達して、以前より多少抑えられましたが、しかし、大きな善と大きな忍を持って彼に真相を伝えることはやはりできませんでした。

 法に照らしてみると、自分は「情」に浸って、方向を失ったように思いました。両親に対する済まない気持ち、姑一家に対する不満、夫に対する恨み、子供に対する気がかりと無力感、様々な「感情」、それらを自分の恨みと感違いして、息が詰まっていました。今度のトラブルで、私は「棒喝」され、やっと目が覚めました。

 どうして常人に動かされたのでしょうか? 結局、自分はこの情から跳び出せなかったのです。今、第三者の立場に立って、再び自分を見つめ直した時、はじめて冷静になって、はじめて情に動じなくなりました。以前の執着は、取るに足りないほど微々たるものに見えました。師父は私を脱皮させてくださいました。

 悟り、やり遂げる

 修煉の道はこれからも歩んでいかなければなりません。法を正す進展は誰かがしっかり修めていないから待ってくれるわけにはいきません。法を学ぶことによって、はじめて、様々な人心と執着を認識することができました。円満成就は口先だけのものではなく、着実に、しっかりと修めなければなりません。弟子のすべては法を源にするのです。

 自分の悟性と修煉状態にとても恥ずかしく思いました。以上間違ったところや法に合致しない所があれば、同修の皆さまにご指摘をお願いします。合掌。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の詩:『米国西部法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/8/11/332790.html)
 
関連文章