人々を救い 自己を修める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年10月14日】今回、私と2人の同修は場所をかえ、市場で真相を伝えることにしました。私たち3人が分かれた後、往来する人々の流れの中で、私は法輪功の資料を両手に持って渡していました。しかし、しばらく経って誰も受け取ってはくれず、それどころか、罵る人までいました。私は考えました。「ここの邪悪はなんて酷いんでしょう。人々が救われるのを邪魔して。発正念をして徹底的に取り除きます!」。しかし、その後もやはり誰も受け取ってはくれません。

 私は内に向けて探しましたが、何も見つけることはできませんでした。そこで、心の中で師父の説法を暗唱しました。「もし、心性または行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放任している隙につけ入っているに違いありません」。[1]  そこで、自分の修煉に対して放任している所があることに気づきました。私は自我に執着し、同修の誤りを非難していたのです。

 当日の朝の発正念の後、私は市場に持って行く資料の準備を始めました。準備を終えて時計を見たところ、まだ、6時48分(中国と日本の時差は1時間)でしたので、同修に電話したところ、「私たちはもう出発しましたよ」と言われました。これを聞いてすぐに「出発したのなら電話ぐらいくださいよ」と言いました。そして、慌てて同修に追いついた時も、「出る時、電話をくれればあなたたちも待たされずに済んだのに」と言い、同修は「はい」と答えました。

 その時、表面では相手に優しくしているつもりでしたが、内心では嫉妬心や自己心、不満を抱き、同修を非難するなど、全く相手の立場に立って考えていませんでした(その同修はもしかして、電話をかけられる状況ではなかったのかも・・・)。

 まさに師父が説かれたように、「悪者は嫉妬心によって、私のため、怒りのために、自分が不公平だと言います」 [2] の状態でした。また、これだけではありません。名誉に対する執着や相手が自分のことを何とも思っていないと勝手に思い込んでいたことで、自尊心が傷つけられたのです。これらの汚れた思想をまだ取り除いていなかったために、人々は資料を受け取ってくれなかったのです。

 これらの執着心を放下した時、周囲の状況ががらりと変わりました。資料を受け取りに来る人々はまるで行列をなしているかのようで、真相を伝える時間も足りません。20部ほどの資料はあっという間になくなりました。そして、受け取った人々もすぐには去らず、その場に立ち留まって真剣に読んだり、もっと多くの真相を知りたいと私のところに来る人もいて、私は1人ずつに真相を伝えました。その内の12人は「三退」し、また、すでに三退した人は署名用紙に署名し、その態度はとても誠実でした。

 人々の反応や態度を見て、人々は救われるのを待ち望んでいると感じました。この大きな変化により、なぜ問題が起きた時にすぐに気付かないのか、その原因が分かりました。

 普段、法を学んでいる時、よく眠くなったり、思わず別のことを考えたりしてしまうので、主意識を強めるために私は学ぶ方法を変えました。同修が法を読んでいる時、私は本を閉じて心の中で法を暗唱し、一文字一文字をはっきりと意識しながら暗唱しています。順番がきた時は、誤字脱字のないよう真剣に読みます。こうしてしばらく時間が経つと、効果が非常に良く、大法が自分の小宇宙に根付いたような感じがしました。

 このことを通して、教育を受けていない、字が読めない年配の同修がなぜ『轉法輪』を通読できるのか、また、「7.20」から現在まで、技術など全く知らなかった同修がそれをマスターするまでの苦労が分かるようになりました。同修たちが師父の要求された「三つのこと」をすべてよく行うことができるのは、普段、真剣に法を学んできたからであり、常に初志を貫徹してきたからです。一体どれほど努力し、どれほどの難関を乗り越えてきて、そして、やっと師父の法を認識することができるようになったのでしょうか? 想像を絶します。それに比べて、このような私は本当に恥ずかしい限りです!

 同修同志が交流している時、誰々がしっかり修めているなどと言う人がいますが、それはその人の根基が良く、智慧もあり、次元が高いことを言っています。同修の考えを否定はしませんが、我々の根基が良くなければ、良い大法弟子に容易にはなれないのです。ただ違うのは、一部の人は常人社会の幻像に深く惑わされ、業力を作れば作るほど難が大きくなり、業力の場も大きくなって知恵が発揮されにくくなるのです。師父はこのように説かれました。「他の人を既成の材料とすれば、彼は生の原料で、あらためて一通り加工しなければならず、そういう過程を経なければならないのです」 。[3]  従って、修煉の中で遭った様々なトラブルや困難、苦痛など、これらはすべて原料であり、それを既成の材料に加工しているのです。我々は天から降りてきた「王」であり、皆大きな知恵を持っているのです。大法の中で絶えず精進すれば、法は我々の知恵を開かせてくれ、よりうまく真相を伝えることができるのです。

 まだ家から出てきていない同修たち、早く出てきてください! いつまでもこの状態から抜け出せなければ、後悔することが多くなっていくばかりです! この最後の機会を大切にしてください!

 「できる限りのことはするよ」という同修がいますが、それを聞いて私は心が痛みます。「できる限りのこと」とは一体どういうことでしょうか? 現状に満足しているからですか? それとも、停滞しているということですか? これは消極的な態度であり、主意識が強くなく、正念が足りず、魔性に怠惰という隙に乗じられたのだと私は思います。

 師父はこのように説かれています。「考えにずれが生じれば、魔性がただちに作用するのです」。[4] (誰かを特定して言っているのではありません)このような考えを持っている同修は非常に危険な状態にいると言っているのであり、「できる限りのことはする」という言い訳では誓約を果たすことはできません。旧勢力は隙あればと虎視眈々と凝視しているのはなぜでしょうか? それは我々を壊滅するためではないでしょうか? それなら、なおさら自分自身に障害を作ってはならないのです。「佛法修煉においては勇猛邁進しなければなりません」[3] という師父の説法をしっかりと心に刻みつけて忘れないでください。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「道法」
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「境界」
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法定」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/10/7/335867.html )
 
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