【明慧日本2016年11月12日】黄金のエレガンスと高級感はその純度にあります。不純物が少なければ少ないほど純度が高くなり、品質も上がります。
私が思うに、修煉者の次元や境地はその人の思想の純潔さにあり、雑念が少なければ少ないほど、次元が高いはずです。
金は猛火で精錬します。なぜなら最後に残った不純物はさらに高い温度でしか溶けないからです。つまり、修煉とは様々な魔難の中で鍛えていくことで、内に秘められた根深い雑念を暴き出して取り除いていくのです。
そのため、様々なトラブルや問題、魔難などに遭った時、第一の念がどのように働くのかが重要になってくるので、自らの思想を厳しくチェックし、大法の要求に合わない観念を取り除きます。こうすることで絶えず自分自身を清め、次元を高めることができるのです。
しかしながら、修煉の難しさは様々な観念が非常に複雑に入り混じっており、それに加えて、情慾や利益による妨害がありますので、ほとんどの場合は、自分自身をはっきりと見つめることができません。なぜなら、人のずる賢い思想は執着心を隠すからです。修煉者が自らのトラブルに正直に対応せず、様々な言い訳で責任から逃れたり、転嫁したりすれば、修煉がより一層困難になるでしょう。
時にトラブルの表れがそれほど際立ったものでなくとも、心の動きは活発なので、それは修煉する良い機会になります。ここで、隠蔽された思想活動について交流したいと思います。最近、私自身がこの方面においての体験が比較的多いのです。
具体的な例を挙げます。
子供の教育問題について、妻と意見がすれ違い、はじめて大喧嘩をしました。その後、内に向けて探したところ、闘争心があることに気づいたのです。お互いの意見に不服で、自分自身の考えを諦めたくはありませんでした。この心理が見つかり、自分の過ちに気づいたので妻に謝ろうと思いました。しかしながら、心の底で何かが自分を引き留めており、謝ることは非常に情けないと感じました。自身の過ちに気づいていても、謝りたくないのです。
法で自らを律し、過ちに気づいた時は素直に謝ることは恥ではなく、勇気を持って相手に謝ることこそ修煉者としてやるべきことなのです。人は皆過ちを犯します。間違いのない人はいません。しかし、大切なのは勇気を持って過ちを認めて相手に謝り、それを正すことなのです。けれども、自分が法に同化することを常人の観念が邪魔しているのです。
ここで思想についてさらに深く掘り下げてみたいと思います。心の中では謝りたいのに、謝ると、彼女に咎められることを恐れているため、直接謝ることが困難になってきました。彼女の態度が良ければ、謝ってもいいけれど、もし、彼女が冷たい顔をしていたなら、少し経った後に謝ることにしよう。これを見て皆さんは「この人はなんと複雑に物事を考えるのだろう」と笑い出すかもしれません。そうなのです。私の思想はとても複雑で、謝るにも前提条件がいるのです。「私への態度が良ければ謝るが、態度が悪ければ謝らない」と。
そして、翌日の昼頃、妻はすでに食事の支度を整えていたので、これを見て彼女の態度が良くなったと分かり、謝ると同時に自分のこれまでの心の動きを伝えたところ、彼女は理解してくれました。
しかしながら、よく考えてみれば、この謝りは基準に達していないのです。自分の過ちに気づいたなら素直に謝るべきなのに、私は謝ることに条件を付けたので、大法の要求には達していません。これでは、自らの修煉に条件を付けているようなものです!
翌晩、自分の考えを保持するのではなく、妻の提案でやらせ、自我を下ろしました。その結果、子供が宿題を終えるまで付き添い、何事も起きていないと思った途端、妻が宿題のチェックをする時に、一部の文字が汚いことに気づき、書き直すように言いました。しかし、子供は書き直したくないと、あれこれ言い訳をしたため、妻を怒らせてしまい、全部書き直すという罰が与えられました。これを聞いた子供は助けを求めて私の所に来ましたが、書き直さなくてもいいなどと言えば、また妻と喧嘩になってしまうでしょう。彼女のやり方は自分の考えとは異なっていると分かっていても、トラブルにならないよう「お母さんの言うとおりにしなさい」と子供に伝えました。
誰からも助けてもらえない子供は泣きながら宿題を書き直し始めましたが、それでも妻は大声で怒鳴っていました。隣の部屋で聞いていた私は「これは一体私のどの執着心に対して起きたことだろう。子供がやらないと意地を張れば、妻だってどうすることもできない。宿題が終わらなければ、いずれ救いを求めて彼女は私の所に来るはずだ。もしそうなれば、これは彼女が間違っているということになるので、ここは何もしないでおこう」と考えました。
ここで言いたいのは、自分のこの思考観念が正しくないということです。表では何も行動に移していないし、口でも「お母さんの言うとおりにしなさい」と言っています。しかしながら、実際、心の中ではそう思っておらず、まさに心が動いたのです。しかも、それは悪い考えであり、妻の意見に賛成しないのに、誠実に彼女と交流するのではなく、「口で勝てないなら、横で見物するとしよう。フン! 君が困った時、どう対応するかが楽しみだ(以前、これに似たような状況が起きたことがあり、その時の妻は怒りを静めようとベッドで横になり、結局、私が破局を収拾することになった)」などと嘲笑の心を持っていたのです。
自分自身の思想の変化を見逃さずに、冷静に見つめていくと、まるでこの中から抜け出したかのように、偽の自分の演技を見ているような気がしました。このようにしっかりと自分の思考を認識することは今までに一度もなく、ほとんどの場合、問題を解決するためだけに内に向けて探すという上辺だけの行為に留まっていたのです。しかしながら、今回はこのことで自分を修めていると実感することができ、この機会を逃さずに、真に自分の不足に気づいたのです。表では何もしていないけれど、実際は不服な心理が働いており、口では相手に賛同したものの、心の中では全く同意しておらず、それどころか、相手が過ちを犯すのを待っていたのです。(要は陰で悪さを働いていたのです)
最近、この方面において、様々なことを感じ、修煉とは表の飾り付けを指すことではないということをしっかりと認識しました。自分が一体どれだけの事をしてきて、どのような問題を解決してきたかなどではなく、自分の思想が浄化したのかどうかということこそ、修煉の本質であると思います。そして、最近の体験から、師父の『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』の中のある段落をより深く理解することができたのです。
「しかし、あなたの考えは神が見ているのではありませんか? あなたは自分が修煉していると言っていますが、修煉とは何でしょうか? 人間に何かを見せるのは修煉ですか? それは嘘偽りの修煉です。あなたの考えがどのように動いたのか、それこそ真実なのです。誰があなたの考えを知っているのでしょうか? 同修同士で考えの動きを見ることができるのでしょうか? 相手はあなたの考えによって現れてきた外面的行動しか見ることができません。あなたの根本的な目的とは何か相手にはやはり分かりません。誰に見えるのでしょうか? 神に見えるのです! 師父の法身、宇宙の無量無数の生命に見えるのです!」[1]
注:
[1] 李洪志師父の経文:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』