気づきにくい「虚栄心」について考える
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 文/中国の大法弟子

 【明慧日本2016年11月24日】心性を修める過程で、皆さんはよく顕示心や闘争心などの人心は探しますが、虚栄心についてはあまり言及されていません。虚栄心は顕示心やメンツを重んじる心ととても似ていて、気づきにくいからかもしれません。

 では、虚栄とは何でしょうか? 簡単にいうと、虚栄は表面の輝き、あるいは誉れだと思います。虚栄心はこの表面に留まる、あてにならない名声や栄誉を得るために使う人心です。私が見る限り、虚栄心は修煉者の間で普遍的に存在しています。執着が強く、心が動じて我慢できなくなったとき、虚栄心がよく現れます。たとえば、自分の長所に関しては、全力を尽くして言いふらし誇示します。自分の欠点については、手を尽くしてごまかし過小化します。

 邪悪の黒巣の中でごく普通に振る舞ったにもかかわらず、出てきた後に、自分はいかに正念を持って英雄の壮挙をしたかを大いに宣伝します。人前では大言壮語(たいげんそうご・実力以上に大きな事を言う)するものの、それとは裏腹に、江沢民を告訴する訴状には、自分の実名や個人情報を全く書きません。

 いかにも大きなことを行っているような勢いで、用事のあるなしに関わらず同修の間で頻繁に駆け回って、どこに行っても大言壮語し、自分のやった事の多さや知っている情報の豊富さを誇示し、同修たちから賛美の声や名声を得ようとします。

 言葉は心の表れで、言論はその人の人格を表す。

 人間として生きていく間、事を行う際は高いレベルを目指しながらも、地味に身を処すると言う人がいます。また、ことを行う際は90度を目指し、身を処するには45度を目指そうと言う人がいます。言い換えれば、事を行うとき、垂直の角度から力を目一杯出して、正直かつ堅実に行うべきで、身を処するには45度の角度を保ち、頭を下げて遜(へりくだ)って虚勢を張りません。遜って控えめな人は徳行や内包があります。言いふらし、見せびらかしたがる人はきっと自信がなく、内心が空虚です。外見が華やかでも感じず、気にしない人、才能があっても黙々と人に知られない状況で貢献する人、このような人々は徳と教養があると言えます。自己主張に明け暮れ、自慢げに自分を誇示する人は、たとえ才能があっても、自己を主張し誇示することで値打ちが落ちてしまいます。

 法輪大法修煉者は賢人の資質を持ちながらも、弱者の姿勢で身を処し、自身を修煉して法を正す師に手伝うと同時に、世間の人々に高尚な道徳の模範を見せるべきです。ましてや、今は非常に肝心な時期で、全宇宙の計り知れないほどの神々が、この小さな小さな地球を見ていて、修煉者全員および、すべての生命が持つ考えや念の一つ一つまで注視しておられます。考えればわかりますが、神々が見ておられる中で、どうして自己を表現し、誇示する必要があるでしょうか!

 同修の皆さんと一緒に内に向けて探し、虚栄心を取り除き、まじめに修煉し、神聖な使命を全うしたいと思います!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/11/15/337671.html)
 
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