同修からの褒め称えは、自分にとっての関
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中国大陸の大法弟子

 【明慧日本2016年12月24日】私は、10年近く法輪大法を修煉していますが、自らの根本的な執着心に対して、まだ何も分かっていません。現在は力が抜けてしまい消沈している精神状態で、毎日、自分に強いて『轉法輪』の一講を勉強し続けているものの、とても入念に学法しているとは言えません。煉功も言うまでもなく、したりしなかったりを繰り返すだけの辛い日々を送っています。無念の中で本当の修煉者とも言えなければ、常人とも言えない自らの認識に気づき、もう修煉をやめて、一日も早くこの世を去りたいとすら思ってしまいます。しかし、一方では、この苦痛から早く抜け出したいとの本音もあって、本当に進退窮まる心境です。

 この時、私は心を静めて「どうしてこのようになったのか」をよく自問自答しました。一つつの人心を見つけ出し、まるで修煉していないかのように、さまざまな執着心を抱えていることを発見しました。同修たちに「よく修めている」 「よく悟っている」と認めてもらおうとする狡猾な心から、人に見せびらかす為に、大法の中でいい加減に任務を果たしながら、同修たちからの褒め称えを受け続けてきました。「正しいのは自分、間違っているのは相手」という常人の理をもって、同修と常人から認めてもらおうと、今まで争ってきました。自身のことを誰よりも勝っていると思い込み、何か起きたら外へ向けて探し、自らの不足に気づかないまま、常人の理をもって自分のいいように同修たちを間違った方向に導いていました。憎しみ、闘争心、顕示心、色欲心、恐怖心と人情による如才無しを放下するどころか、汚れている念がたくさんあって、どんどん膨らんでいく一方でした。今後はこれらの執着心に対して、正念をもってこの一つつの人心を取り除き、初心に戻って最初からやり直し、必ず師父の真に修める弟子になれるように精進し、心を修め直すことからやり直そうと決断しました。

 実は、私達全ては常人社会において修煉している人間で、皆、師父の弟子であります。一人も例外なく肉眼で人間の表面を見ています。しかし相手の真の内在的な思想、思惟を見ることができません。師父だけが真に修めている弟子かどうか、いい加減にこなしているかどうかの判決を下すことができます。師父以外に、同修に対して評価できる修煉者は1人もいません。褒められている同修にも必ず問題があり、私がその典型的な例です。顕示心、歓喜心、他人に褒められたがる心、名誉を求める心、そのいずれかを持っていれば、旧勢力の破壊的な行為に利用されますので、本当に恐ろしいことです。私たち同修の間では褒めたり、褒められたりすることなく、自らの出発点がどこにあるかをよく再考してみてください。自分を放任したまま、過ちを見過ごさないように注意しなければなりません。さもなければ、同修に害を与えてしまいます。

 私達は人間社会中で修煉しています。人間の肉眼は真相を見極められません。本当の善し悪しを区別できません。もう二度と「無意識的」に同修の名利心を助長するようなことをしてはいけません。同修を褒めることは「本当に同修のためですか?」とよく考えるべきです。私たち皆、師父の弟子に過ぎません。合格の可否は、すべて師父のご判決次第です。私たちはあくまでも互いに助け合い、同修の不足に対して善意をもって指摘することこそ、真に同修のためになり、同修に対して責任をもつことになります! 真に修める弟子になるために、互いの協調を向上させ、全体の昇華を目指しましょう! 

 師尊に、感謝申し上げます。

 同修に、感謝します。

 不適切なところがあれば、同修による慈悲なるご叱正をお願いします。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2016/12/14/338913.html)
 
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