祝賀カードを作成する中で心性を高める
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年1月11日】初めて祝賀カードを作ったのは、修煉を始めた年のことです。同修から「もうすぐお正月になるから、師父に送る祝賀カードを作ってもらえますか」と言われ、当時、同修達が毎年祝賀カードを作る伝統があることも知らず、自分の頭には何のアイデアも浮かばず、同修に「明慧ネットでこれまでの祝賀カードを調べて見たら」と勧められました。

 そこで、私は明慧ネットにアクセスして、これまでの同修達が作成した祝賀カードを調べました。見た感想は、品質の高い作品は少なく、あくまでも皆さんの気持ちを表すようなものばかりだと偉そうに思いました。

 私は同修に「このぐらいのものを作ればいいのですか」と尋ねました。つまり、この程度の品質のものを作りたくないとの意味でした。同修は私が言おうとする意味を察知して「それはあくまでも参考までで、あなたの才能を発揮して、もっといいものを作れば有り難いわ」と言われました。

 そこで、私はやる気満々で、半日を使ってオリジナルな祝賀カードを作成し、同修たちに「さすが凄いね」と言われるのを期待しましたが、同修に見てもらうと「この祝賀カードは何だかよく分からないし、気に入らないわ」と言われ、まさかあの野暮ったいものの方がいいの? と心の中でグズグズ言いました。しかし、考えてみれば、同修達が認めてくれなければ駄目なので、やり直すしかないと思いました。そこで、明慧ネットに掲載された同修達の作品を真似(まね)、幾つかの素材を探して組み合わせ、さらに、オリジナルなデザインを少々加えて完成させました。結局、この自分の美意識に合致しない祝賀カードは、同修達に認められ、さらに、その年、明慧ネットで結構目立つ場所に掲載されました。「師父があなたを励ましてくださっていますよ。これからさらに努力して、もっといいものを作りましょう」と同修は褒めてくれましたが、この事について、私はあまり深く考えませんでした。

 それから、祝賀カードを作る技術を教えてほしいと言う同修も現れ、それに、自分の技術にも自信があり、その後、やはり自分の思い通りの祝賀カードをデザインしました。それらのものは一応掲載されましたが、ある時、私が作った祝賀カードは、一部削除された状態で掲載となったため、やっとこの問題点について自分が全く修めていないことに気づき、始めて冷静になって、内に向けて自分の間違いを探すようにしました。

 今まで、自分はずっととても強い常人の観念を持って、祝賀カードの作成に対処しており、同修達が作った祝賀カードはあまり見栄えがしない、粗雑なものに見え、自分の「現代的な美意識」に合わないと思っていました。当然、多くの年配の同修にとって、技術的な面が弱いのは事実ですが、同修達の身の入れ方に関して、深く考えた事がありませんでした。

 私は再び明慧ネットで発表された祝賀カードを見ました。心を静めて観念を持たずに、これらのカードを見た場合、結構素晴らしいものが多く、特にカードに注がれた気持ちを強く感じるようになりました。幾つかの素材は繰り返して使われていますが、込められた気持ちによって、出来上がったカードの品質も違っていました。たとえ技術面は少々弱くても、人を震撼させ、感動させる効果がある作品もあり、一部の祝賀カードを見ると思わず涙が出て来るほど、心を打たれました。これらの祝賀カードを作った同修は、もしかしたら結構年配な方で、今までパソコンでこのような図案の操作などをしたこともなく、パソコンそのものもあまり使いこなせないのかもしれません。しかし、彼らは師尊に対する敬い慕う心を持って、師父の御恩に対する感謝の気持ち、大法に対する敬虔な気持ちを持って、たくさんの時間と力を費やして、やっと出来た祝賀カードは、師父の神通力のご加持によって、技術的な不足が完全にカバーされ、このような作品が世の人々に披露された時、人々を震撼させる威力がありました。一方、私はどうでしょうか。たとえ技術的には高くても、これらの同修と比べたら、私の作品は人を感動させる力が劣り、なかなか及びませんでした。なるほど、当初自分が良さそうに思った祝賀カードは、同修達から認められなかったのも、当然なことで、これが理由だと分かりました。

 それからというもの、祝賀カードを作る前に、必ず自分の気持ちを確かめ、自分を実証して自己顕示をしようとしているのか、それとも純粋な心で、敬虔に大法を実証しようとしているのかと自問しました。とは言え、実際やり遂げるには、次元によって基準も大いに違うのです。

 私はこの問題を悟った後、祝賀カードを作る前、必ず謹んで、自我を持たずに、純粋な心で取り扱っているかどうかを確認しました。しかし、作業をしている中で人心がまた湧き立ち、自分の考え方にまた執着するようになり、自分の好き嫌いで作成するようになりがちでした。そうした場合、私は意識的にその人心を根絶するようにし、出来るだけ「自我」を放下するようにしました。自分の能力は師父が与えられたもので、それは法を実証するために下さったものだとはっきり意識して、こうして、私がいる次元で、精いっぱいの敬虔な態度で祝賀カードを作りました。ある年、祝賀カードが掲載され、しかも、前列に掲載されました。同修は「この祝賀ガードに相当思いが込められ、しかも心の純粋さが伝わり、これほど目立つ場所で掲載されたのは、師父からの激励だ」と言ってくれました。

 しかし、知らないうちに歓喜心はやはり芽生えました。口では、歓喜心を生じてはいけない、褒め言葉に動じないと自分に注意しましたが、僅かながら歓喜心を生じました。しかし、この人心を一つ一つ着実に取り除かなければ、やり遂げることが出来ません。その後、発表した祝賀カードは、やはり後ろの方に載せられてしまいました。

 実は、祝賀カードを作る過程は、人心を修める過程でもありました。例えば、一つの比較的に低い次元で、敬虔で、純粋な心を持って祝賀カードを作らなければならないと悟り、そのように実行し、その基準に到達しました。しばらくして、振り返って見れば、以前に作ったカードにはまだ人心があることに気づき、しかもその人心が同じもので、ただ、弱くなっているだけかもしれません。そうした場合、次に作成をする時、私はこれらの人心を修めるようにしました。さらに次に作る時、前のカードにはまだ人心があることに気づき、それは違う人心だったり、同じ人心だったりして、また程度も違っています。法はそれぞれの次元により私達に対する要求が違い、その過程で、師と法を敬う程度も次第に昇華して行きます。自我に執着する「私心」を持っていれば、師尊に、大法に対する敬虔な心はその分少なくなります。しかし、次元を突破していない時は、それに意識することが出来ず、或いは自分はもうすでにやり遂げたと思っていますが、しかし、しばらくして振り返ってみると、まだまだ距離があることが分かるのです。

 昨年の中秋節に祝賀カードを作った時、自分は十分心が純粋で、しかも「くれぐれもごまかさないように、自分を実証しないように」と心得も書いて、自分にも同修にも注意を促しました。しかし、振り返ってその祝賀カードを見ると、やはり人心があることに気がつきました。この時、やっと「修煉ってどの心も真剣に対処しなければならない、どの人心も、異なる次元において、異なる現れがあり、同時にそれに相応する要求と基準があるため、その次元でやり遂げ、その関門を一応通過したとしても、次の関門が来るとさらに修めなければならない、決して同じ次元に留まり、足踏みしてはいけない」と思いました。

 祝賀カードの作成を通じて「修は己にありて、功は師父にあり」[1]を真に体得しました。私が身につけたすべての技術は、師父からいただいたもので、法を実証するため、衆生を救うために用意されたものです。そして、すべての人心を取り除くことに力を入れて始めて、その技能が向上となります。それも師尊の神通力によってくださったものです。自我を完全に放下し、敬虔で、純正な心を持って祝賀カードを作れる自分は、この上なく幸運で幸せ者だと思いました。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/1/3/340364.html)
 
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