内に向けて探し 観念を変えると主人も変わった
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2017年2月20日】修煉してからも、私は主人との心性の関をいつもよく乗り越えられませんでした。内に向けて探すと、彼を気にくわない心、恨む心、非難する心、闘争心などがあることに気づきました。そして、これらの心を一つ一つ修めていきましたが、それでも、心の深いところにまだ色々な心があり、まだまだ修めていないと感じていました。ですから、これらの関と難に遭遇すると、よく乗り越えられないことがあり、良く乗り越えられないと、20年の間修めた古い弟子だというのに、いつも悔しく、情けなく思っていました。

 そしてそれを乗り越えようと思い、私は法の暗唱をはじめ、ある日  「心性が修煉して上がって来たら、例えば、常人の中で人に罵られても、黙って平然としています。殴られても何も言わず、一笑に付するだけで済ませてしまいます。そうなれば、その人の心性はもうかなり高くなったと言えます」[1]という部分を暗唱しました。

 以前この部分を読む時、読み終えたらそれで終わっていました。心の中で、社会生活で、誰かが私を殴ったり、罵ったりしたら、私は何も言い返さず、一笑に付することができると思っていました。例えば、真相を伝える時、人に罵られても心を動じさせないことができます。思想改造施設で転向しなかったことを理由に、法輪功の修煉をやめ、逆に迫害している人に罵られたり、侮辱されたりしましたが、少しも気にしませんでした。ただ彼らが可哀想だと思いました。しかし、今この段落の法を繰り返して、暗唱する中、突然悟るものがありました。普段同修の間で心性の摩擦に遭遇した時、理由もなく、特に主人が私を大声で怒鳴り、心をえぐり骨身にこたえることを言い、人を悲しくさせる言葉で私を罵る時、私は言葉を返さず、心の中で平然と冷静に受け止めていたでしょうか。いつになったら、一笑に付すことができるでしょうか。振り返ってみると、そのように出来たときがほとんどありませんでした。例え、言い返さなくても、心の中は不平不満でいっぱいでした。しかし、この段落の法をいくら繰り返して学んでも、今まで自分に照らしてみたことがなく、今日、法に照らしてみると、びっくりしました。罵る、殴るは別としても、一言でも耳に障ることを言われると、私はいつもいつも弁解していました。

 その原因は他でもなく、心が正しくなく、自分を修煉者とみなさず、常に人の判断基準で問題をみていて、人類の理から抜け出していなかったのです。師父は「覚えておいてください。人類の理は逆になっています」[2]と説かれました。しかし、私はやはりこの逆になっている人類理の中で、正しいか間違っているかを判断していました。これは他でもなく、人ではないしょうか。少なくても、この問題において、私は向上していませんでした。人から抜け出し神になるには、すべての問題において、人の認識から抜け出すべきではないでしょうか。それこそ、修煉して悟りを得た人、つまり覚者ではないでしょうか。覚者になろうとするのに、どうして人類の理をもって、と争うことができるでしょうか。法理がはっきりし観念を変えると、再び、主人や同修に言われた時、反発の言葉が喉元まで出て来ますが、それをグッと飲み込み、言い返さないことが出来るようになりました。最初は心の中で心地悪く思い、ひいては心の中で自分のために弁解していましたが、少しずつ心が穏やかになっていきました。

 ある日の午後、私は用事があって、数人の同修の自宅を訪れました。最後に、長期にわたって、病業状態の同修の自宅を訪れました。同修は非常に悩んでいて、涙を流しながら自分の苦しみを訴えました。私は同修と法理に基いて切磋しました。夜、6時の正念を発してから帰宅すると、7時くらいに家に着きました。

 私が家に入ると、主人は両目を大きく見開き、すごい剣幕で怒鳴り散らしました。私が遅くなって帰宅したことに不満を爆発させました。主人は、私が家事をしないので夕食も作らず、この家庭はもう維持できない、離婚しようなどと、たくさんの聞きづらい言葉を吐きました。さらに、思ってもみなかったのですが、故郷に住んでいる80歳をすぎた私の母に、心臓病と高血圧を患っている母に、このことを電話したことです。母に私をもう少し管理するように、私が一日中家におらず帰ってこない、(実際は、家事をし午後2時に外出していました)と伝えました。私たち兄弟と姉妹はみな大法を修煉していて、皆ひどい迫害を受けてきました。ですから、母は毎日びくびくしながら生活し、常に私達がまた迫害や被害に遭うことを心配していました。主人の電話に出た母は驚いて2人の妹に電話し 「姉さんにまたトラブルが起きた、どうしようか」と相談しました。これで一気に親族の皆が驚きました。私が家に帰ると、妹から電話がかかってきて、自宅にいることを知りやっと安心しました。私に早く母と三番目の妹にも電話して、無事だと告げるように言いました。

 母と三番目の妹に電話してから、私が座りかけると、今度は、主人の非難や文句と怒鳴り声を聞きました。今回怒り狂う主人に対して、私の心は異状に平静で何の言い訳もせず、一言も弁解しませんでした。私は自分を煉功者とみなし黙って聞きながら、内に向けて探すと私が間違っていました。主人は私のことが心配で心配でこれほど怒っていました。これからは再び帰宅が遅くなる時は、彼に電話して伝えよう、自分が電話を持っていなくても、誰かに携帯電話を借りてかけよう、こうすれば問題は解決できます。どうして、この点について、思いつかなかったのでしょうか。師父は私達に小さいことでも他人のために考えるべきだと教えてくださったのに、私は覚えておらず、自分がやっていること、大法を実証する仕事が最も大事で正しいことだから支持すべきで、反対してはいけない、邪魔してはいけないとずっと思っていました。ですから、主人に心配かけていた事にも配慮すべきで、彼の立場から考えたこともなく、自分勝手な事ばかり考え、反省しました。

 師父は私達に「実は大法弟子の生活はすでに修煉と一環一環、緊密につながって溶け合っている」[3]と警告されていました。普段私はうかつな人で、生活上の些細なことを気にせず、これらの小さなことを修煉として扱ったことがなく、厳しく自分に要求しておらず、主人とはいつも些細な生活上のことで喧嘩していました。例えば、トレイの電気の消しわすれとか、床に水が一滴落ちているとか、食事する時不注意でご飯つぶを落としたなど些細な事です。毎度その時、主人はどこかぐずぐずしていてどこが男ぽいのかと思い、心の中で軽蔑していました。今になってやっと、師父は主人の口を借りて、私にこれらの些細なことの中で、自分を修めるように悟らせて下さったことが分かりました。これまで主人に感謝しないばかりか、恨んでいました。私のこれのどこが正しいでしょうか。間違っていました。

 これらに思いあたり、私は本当に主人に謝りました。「すべて私の間違いでした。あなたのために考えず心配をかけました。今後、帰宅が遅くなるようなら必ず電話をかけます。そんなに怒らないでください。次からは必ず気をつけますから」と心から謝りました。主人もそれを聞き、少しずつ怒りが消え、機嫌が直りました。主人の怒りが消えると 「以前、私達を助けてくれた同修のお姉さんの自宅に行ったため遅くなりました。彼女は長期に渡り、病業の状態に陥っていて、非常に苦しんでいます。ですから、少し長くいました」と伝えると、主人もそれを聞き何も言いませんでした。

 翌朝、主人は「昨日は悪かった。自分も間違っていた。あれほど怒るべきではなかった。そして、お母さんに電話して心配かけるべきではなかった」と謝りました。お母さんに謝りたいから、速く電話するように催促しました。私は「大丈夫です。すべて私が間違っており、自分のせいで起きたことです。今後、必ずこの教訓を汲み取り、どんなことをするにしても、相手のために考え、常に自分を修めることを忘れないようにします」と言いましたが、主人はやはり母に電話をかけて謝っていました。

 それから、主人は変わりました。私が遅く帰宅しても、少しも怒ることなく、また積極的に自分にできる家事をやりました。私もなるべく、食事の前に帰宅し家事をし、家庭の正常な生活に影響しないように注意しました。

 一度、1人の同修が田舎に行き、真相資料を配布していたところ、強制連行されました。私たちは救援に行こうとしましたが、お昼に戻ることが出来ないため、私は帰宅して主人と相談しました。これは、はじめて彼を尊重して、相談して意見を求めました。私は「もし行くとしたら、昼食はどうしますか。あなたの同意がなければ行きません。自宅で他のことをやりす」と相談しました。主人は自分を尊重し意見を求めていることに、非常に感動しました。以前、私は主人のことをちっとも考慮せず、彼の気持ちなど気にしませんでした。彼ははじめて夫としての尊厳を感じたそうです。感動した彼は「行ってあげなさい。お前が思想改造施設に強制連行された時、同修がいかに救援してくれたか覚えているだろう。力を貸す人、お金を出す人、お前のために弁護士を招く人、まるで家族みたいで本当に感動した。今回は同修が強制連行されたからには、行きなさい。行くだけでなく私もついて行きます。私は車の運転ができるし、その道をよく知っているから」と言ってくれました。主人のこの言葉を聞き、驚くとともに喜びました。主人の態度は本当に私の想像を越えていました。「ああ、よかった。ちょうど1人の同修が車の運転を学んだばかりで、道もよく分かっておらず、困っていたところです。明日、あなたは彼の車に乗ってください。6時30分に○○同修宅に行って、彼を待ってください」と伝えました。

 これらの話の後、お互いに比類なく、格別に嬉しかったことを覚えています。今までこのような喜びはありませんでした。以前は大きいことであれ、小さいことであれ、私たちはいつも反対のことを言い合っていましたが、私の観念が変わると、主人も変わりました。

 以前、私はずっと主人との間の心性の関を、乗り越えられないことを悩んでいました。今回、法を暗唱し、真に内に向けて探し、人間の観念を変え、法の中で自分を正すと、相手も変わりました。私は法の威力、善の力を目にしました。同時に、修煉の趣と玄妙さも体験し、さらに修煉の自信と師父と大法を信じる正念が強くなりました。無私無我、他人を優先し自分を後にする正覚を修めることについて、以前自信がなく、常に高くて手が届かないと思っていましたが、今は自信が持てるようになりました。いかにして、そのような境地に到達できるかを知るようになりました。それは他でもなく、師父が説法の中で、何回も懇懇と教えてくださった 「何かを行なうとき、相手のことを考え、トラブルに遭ったら自分のことを考える」[4]ことでした。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法七』「二〇〇六年カナダ法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/2/7/342541.html)
 
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