「心性が基準に達しなければゆっくりでいい」を論じる
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文/河北省の大法弟子

 【明慧日本2017年3月15日】「これからやること」「目標の設定」のようなテーマについて交流している際、よく「心性が基準に達していなければやれない。無理に続けても妨害でしかない」とかを、よく同修から聞かされます。例えば江沢民訴訟のプロジェクトの中で、地元の協調人は「心性が基準に達していれば進めてもいいのですが、心性が基準に達していなければゆっくりでいいです」と、いつも口癖のように言っています。

 ちょっと聞くと一理あるように思えますが、しかし、どこか腑に落ちない気がします。今日の午後の交流の時にも、ある同修が 「心性が基準に達していれば進めてもいい。基準に達していなければやらなくてもいい」と言い出しました。傍にいた私はこの言葉を聞いた瞬間、内心では猛烈な震えを覚え、突然その言葉の背後に隠れている良くないものに気づきました。それは「私心」です。師父のお言葉に 「做すところ到るは是れ修なり」 「こういうことを真に実行できれば、難しいことは何もありません」の教えがあったにもかかわらず、忘れられているかのようで、この言い方は違うのではないでしょうか? もちろん常人の心を抱きながら無理にやったり、極端に走ったりするのではなく、常人の心を放下して、玉のように透き通る心と清らかな気持ちをもって、法の要求に従ってやればよいのです。よく考えてみれば 「心性が基準に達していればやる、達していなければゆっくりでいい」という言い方は、師父のおっしゃった 「先生が修煉は徐々にするものだと教えているから、ゆっくりやろうなどと言ってはいけません!」にある現象と同様なものです。しかし、そのような言い方は多くの同修を動揺させ  「法を実証する」 「衆生を救い済度する」において安逸心や麻痺した心を抱きながら、精進していない状態にある同修に安易な口実を与えてしまっています。師父の按排による一つ一つが向上する大切な機会であり、その機会を失わせてしまっています。ひいてはチャンスを放棄してしまっている同修も見受けられます。

 例えば「4.25」は北京に行く同修の人数が1万人ではなく100万人、1千万人、1億人でしたら、邪悪による迫害はここまで続けてこられたでしょうか? それから、師父が計り知れないほどの強大なる力でここまで持ちこたえられ、法を正す時間を今日まで延長される必要がありますか? また、江沢民を告訴する人数が20万人ではなく100万人、1千万人でしたら、江沢民はここまで生き延びていられますか? それから江沢民を告発する活動に参加している大法修煉者に対しての嫌がらせや迫害が、ここまで憚りなく、のさばりはびこっていられますか?

 実は一つ一つの大切なチャンスを逃してしまいました。しかし自らを欺いて 「心性が基準に達していない」をもって心のバランスをとろうとしています。法を正す過程にあるあらゆることにおいて、もし全て私たちの心性が基準に達していれば、もはや自らを修めることがなくなるのではないでしょうか。実際のところ、心性が基準に達していないからこそ、師父は心性を向上させるよい機会を按排してくださっています。師父が教えてくださった 「行ない難きも行ないうる」のように大変難しいことですが、それほど重大で深刻な試練の前で私達はいかに法を師とみなし、プロジェクトに参加する過程の中で 「心性が基準に達していない」から 「心性が基準に達した」まで向上させるのです。もちろんその過程は自らを修めているだけではなく、衆生を救い済度する過程でもあります。そうすることによって誓約を実現させ、世間において樹立した大法および大法弟子の威徳は不滅になります。

 師父は 「多すぎる執着、強すぎる執着を放下し、自らの道をしっかりと歩む、この過程は即ち、皆さんの道なのです」とおっしゃいました。「心性が基準に達していればやってもいい、達していなければゆっくりでいい」の言葉の背後に潜んでいる執着に気づいていれば、観念を変えて法を師とみなし、師父の要求と大法の要求、また 「衆生を救い済度する」の要求を大前提にして、二度と修煉を向上させる機会を見逃さないようにしてください。真に自らを修め、法を正す最後のこの大切な時期において 「最後になればなるほど、精進すべきである」を大いに実行し、やり遂げましょう!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/10/344058.html)
 
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