常に修煉者である自覚を持ち何事も行う
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年3月21日】私の周囲に3つのことを続けているが、修煉者特有の穏やかさや幸せな感じがまるで見えない、ないしは長期にわたり苦しくて消極的な状態に留まっている同修が多くいます。そのような状態に陥りたい修煉者は1人もいないと思います。きっと修煉において関に惑わされ長い間乗り越えられずにいるからだと思います。それに関して、自分で悟ったことを書き出して、皆さんのご参考になればと願います。

 大法弟子は俗世間に身を置いて修煉しています。執着心の根源は「私心」に基づいて生じたいろいろな観念だと思います。修煉者は現実生活の中で、自分の利益を守りたいという「私心」を超越することは、確かに難しいです。修煉者は十数年間の風雨を乗り切っていろいろな執着を放下し、いろいろな困難を乗り越えてきたのですが、しかし、些細な出来事のために未だにまだ心が動じることがあります。どうして「私心」を完全に捨て切れないのでしょうか。何に障害されて旧宇宙の理を超越できないのでしょうか? 私が思考した結果、常に修煉者である自覚および師父に対して感謝の気持ちを持たないと、完全に私心を除去することができないと結論を得ました。

 大法弟子、特に古い弟子は、未来の新しい宇宙の中の神になるのです。師父は1999年7.20以前の大法弟子を全部所定の位置に押し上げて、つまり、古い弟子たちは本当にすでに所定の次元にいるわけで、正念さえ強ければ神通力を持つわけです。しかし、どうして修煉者は未だに名・利・情を根絶することができないのでしょうか? ときどき修煉を怠っては、その時その時人心が湧いてきて、神の状態からかけ離れたからだと私は思います。

 例を挙げて説明します。私の父は修煉しておらず、常人社会にも「父慈子孝(ふじしこう・父は子を慈しみ、子は父に孝養を尽す)」という伝統的な道徳的観念がありますが、しかし、我が家ではそんな道徳観が存在していないようです。夏、スイカを食べる時、私はいつも真ん中の部分を両親に残しておいて、自分は端に近い部分から食べます。しかし父がスイカを切る番になると、いつも真ん中を自分が全部食べて周囲の端の部分を私に残します。もし私が修煉していなかったなら、きっと辛い思いをさせられて泣くでしょう。しかし私は泣いたりしていません。父の行為を見て私はぽかんとした後に、親子の間の情はたかがこれぐらいのものだと思いました。しかし修煉には偶然なことはなく、この形で前世父からの借りを弁済しているか、若しくは私の不公平だと思う心(私は子らしく父に親孝行をしたが、父は慈愛のない父であった)を除去させるための試練ではありませんか。

 もう一回、私と父はその日の夕食のメニューをよく相談して決めたにも関わらず、父は私の嫌いなもの、しかし父自身が好きな食材ばかり買ってきました。私の内心に少し波紋が広がったのですが、口では何も言いませんでした。表面上、何事もなく平穏に対応したのですが、しかし、心は動じており、本当の「忍」をやり遂げていませんでした。どうして大きな利益を損失した時、心が動じなかったのに、何度もこれらの些細なことのために心が揺れ動くのでしょうか? 自分に厳しく修煉者の基準で要求しておらず、まだ無意識に人間世界の温もりを求めていることに原因があると私は思います。

 私が本当に父の愛情を求める心を放下した後、父の利己的な振る舞いも少なくなっていき、私のための思い遣りも時々見受けられるようになりました。それゆえに、出会った如何なることもすべて私たちの修煉の向上に関係しています。情を放下して慈悲の心に取って代わってこそ、はじめて衆生を感化(考え方や行動に影響を与えて、自然にそれを変えさせる)することができ、救うことができます。

 険しくて苦しい世の中を生き抜いて、中国共産党文化と無神論に思想改造された父が、そのような利己的なことをするのは不思議ではありません。時には、もしも自分と父の立場が逆転すれば、この私はどんな行動を取るかを考えてみました。生きる目的を知らない、闘争哲学と無神論の嘘と偽りの中で成長してきた父は、日に日に老衰して死を恐れ、残りの人生をできるだけ楽しく過ごし、美味しいものをできるだけ多く食べようと、きっと思っているでしょう。一方、私の心の波動は何なんですか? 衰えて可哀想な父を包容する慈悲心を全く持っていないではありませんか!

 師父は『精進要旨根を掘る」の中で「皆さんの修煉の中で、わたしはあらゆる方法で皆さんのすべての心をさらけ出し、根元からそれを掘り出して取り除きます」と我々に説かれました。人情の温みを求めることは、常人での次元の理を守ることに等しいと私は悟りました。いつでも「自分は新しい宇宙の神である」との自覚を持ってこそ、トラブルに直面してはじめて心を動じないでいられると思います。

 師父は『二〇一五年米国西部法会での説法』の中で「歴史上、佛教が法難に遭い、キリスト教が三百年にわたって迫害を受けたとき、邪が正に勝ったとでも皆さんは思っていますか? 違います。それは神は邪悪の猖獗さを利用して自身の弟子、自身の人を円満成就させていたのです」と説かれました。そうです、表面上円満ではない私の家庭生活は、私の修煉を手助けするために神が設けてくださった修煉環境ではありませんか? そのような家庭環境は、私を精進するように励ます土壌なのです。その家庭に生まれたおかげで私は人間の「利己心」、情と愛の虚しさ、業力の輪廻を見抜くことができ、それによって俗世間のすべてを看破(見破ること)して、心身ともに大法に溶け込むことができ、それは良いことではありませんか? 問題に出遭った時に大法弟子がもしそのように考えることができれば、修煉がなかなか終わらない現実の中で意気消沈して、関にぶつかる時、長く引き伸ばすことがなくなるのではありませんか? きっとますます穏やかに、ますます慈悲深くなるに違いありません。

 病気に陥っている同修を助ける時にも、私は自分の執着心を取り除くことを体験しました。一時、2年間も病気の状態が続く同修Aさんを助けるために、私は彼女の家にしばらく泊まり込みました。Aさんの主な問題点とは、気性が激しいこと、口を修めないこと、党文化の影響を多く受けていること、家事に没頭して学法をあまりしないこと、学法しても口先だけで読むだけで頭に入っていないこと、煉功の動作を間違えること、師父の広州説法のビデオを見る時に寝込んでしまうこと等などです。Aさんの種々の状態から見て、彼女は旧勢力に深刻に妨害されていることが分かります。そのような修煉者を助けるのは最も難しいことです。

 泊まった初日に、歯を磨く時に私は不注意でコップを洗面器にぶつけました。コップが割れるかと心配して、Aさんはすごい剣幕で怒りました。小さい時からたとえ親戚の家に行っても、これっぽっちの事であれほど怒られたことが一度もなかった私は、ショックを受けました。幸いなことにここでは忍を守りました。しばらくしてAさんは謝りに来て、私も自分の問題点を反省しました。最初、愉快な会話をしましたが、Aさんが別の同修の悪口を言い始めた時、言われた同修のために義憤を抱いて私はAさんと口論になりました。その結果、私は少し息苦しくなって、このような同修を私は恐らく助けることができないと思って、もうここで諦めて帰ろうと思いました。

 翌朝、引き続き反省して、私は何をしに来たのか、Aさんを助けるために来たのではないか? しかし私は良い方向にAさんを導かず、またもやAさんの魔性を奮い立たせて、逆にAさんの面倒を増やしたのではないだろうか? 帰ろうと思うのは私心ではないか? 魔難に陥っているAさんはとても苦しんでいるのに、どうしてもっと優しくしてあげられないのかと思いました。

 修煉してから、師父のご恩は身を砕いても返せないものだとずっと思っています。それでは、同修は誰ですか、師父の弟子、師父の身内ではないでしょうか? 師父は『アジア太平洋地区学習者会議での説法』の中で「すべての大法弟子を私は見捨てず、皆私の身内なのに、責任者の皆さんはなぜ私の身内を別扱いすることができるのでしょうか」とおっしゃいました。しかし、師父の弟子、自分の同修に対して私はどのように扱いましたか? 独りよがりで優しさが足りませんでした。ここまで書いて、私はすでに涙がほろほろと流れました。

 その後、私は誠意を持ってAさんに謝りました。Aさんも態度を一変させ、2人とも話し方が温和になって雰囲気も良くなりました。私に怒鳴ってすまないと思い、代わりに私の下着までAさんは洗ってくれ、私はとても感動しました。ここで一言いっておきたいのですが、大法弟子は本質からいうとみな善良な人たちで、大法弟子同士でたとえ喧嘩したとしても、くれぐれも表に現れた悪い振る舞いに惑わされずに、相手の本質の善良さを忘れないでください。その後、一緒に煉功する時、Aさんの動作が正しくないことを優しく注意すると、素直に受け入れるようになりました。

 Aさんは1999年以前には煉功の動作が正しかったのですが、長期にわたり病魔に付きまとわれたため、煉功動作を間違って、表情まで変わりました。その日、私はAさんと一緒に煉功動作の見直しを終え、夜、一緒に煉功動作を教えるビデオを見ました。Aさんはとても真面目でした。私は自分の家に帰った後も、他の同修から煉功動作の注意を聞き入れるようになったと聞きました。今まで誰の意見も聞き入れないAさんがこんなに変わったのは、家に泊まった数日の間に、私がずっと師父に感謝と恩返しをする気持ちを抱いて、心性を守って助力したおかげも少しあると思います。

 魔難に陥った同修を助けるには、善良な心と随時、内に向けて探す心構えが不可欠です。修煉者はそれぞれ違う次元にいて、物事に対する認識も異なります。そのために、自分の認識と異なる意見を簡単に否定したり、自分の基準で他の同修に要求しない方が良いと思います。なぜなら、一段だけ境界が異なると、認識した理も異なってくるからです。同修の間に隔たりが生じるのも、大抵ここに原因があります。互いに自分の認識が大法の法理に合致し、絶対に間違いないと確信できないと、結局、うまく協力することができません。

 以前の私は、修煉状態が良い同修に対してはもっと良くなることを望んで、つい同修にもっと高い要求を出してしまうので、相手にプレッシャーを感じさせていました。一方、修煉状態が遅れている同修に対して、厳しい態度で促したりしていました。今の私は、同じことに出会ったら、師父が弟子たちに対する態度を思い出します。師父を見習い、師父が弟子たちにされていたように、懇々と優しく、粘り強く教え導き、いつでも暖かく励まし見守り続けています。

 私も師父の態度を学んで、問題に出遭うと神の心構えで対応していこうと決心しました。世間の常人を全て師父の身内と見なし、同修を全て師父の子供と見なして、常に感謝と師恩に報いる気持ちで衆生に接して、表面だけの現れに心を動かされず、師父の期待に応えられるように、衆生を救う責任を果たせるように頑張っていこうと思います。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2015/11/28/319744.html )
 
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