自我を放下し、協調する中で修煉に励む
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文/中国の大法弟子 聖梅

 【明慧日本2017年4月5日】私は1998年8月に法輪大法の修煉をはじめました。法を得たばかりの頃、歓喜心をもって法を広め、とても情熱があり心性の修煉を重んじていました。その後、法を正す修煉がはじまり、失敗する度に師父に助けられて冷静になり、真に修煉することとは何かが分かるようになりました。

 一、自我を放下する

 私は長年教育の仕事に携わり、ずっと生徒を教えてきました。人の師となり指導したがる習性は、修煉の中でも現れました。また家庭生活の中でも、幼い頃から物事を指図することが好きで、買い物をする時はいつも両親の手助けをしていました。妹が小さい時、友達に虐(いじ)められるといつもを助けていました。このような責任感は幼いころから非常に強いものでした。我が地区で、当時法を得た人の中には、私のように若くて知識のある人は非常に少なく、私は責任者として録音機を持ち、煉功を作りました。功法を教え、書籍を購入したり、大法の宣伝をしたり、法会に参加するなど、すべてのことを担当してきました。

 個人修煉から法を正す修煉に変わった時、我が地区には師父の新経文がなく、すべて他所に取りに行くか、時には同修が運んでくれ、私は常に資料の伝達を手伝っていました。もちろん、一部の同修は自然に私に助けを求めてくるため、それらをやってあげました。大法の書籍、あるいは師父の説法の録音、プレィヤーの購入など、すべて無条件で同修らの要求に応え満足させました。

 このような行動は時間が経つにつれて、自我に対する執着を助長させ、私はリーダのようになり、誰も意見をいうことができず、私がこうだといえばこうであり、同修らはあえて私の不足を指摘できなくなりました。学法グループの中で同修との争いが発生すると、同修が邪な悟りをしたと指摘し、同修にマイナスな影響をもたらしました。ひいては、学法グループの学法時間に何を学ぶかも私の一存で決めました。一度、私は自宅で師父のある説法を学んでいて、非常にすばらしいと思い、学法グループで同修らにすぐこの説法を学ぶように強いたこともあります。今考えると恥ずかしいことですが、当時は本当にそのようにしており、独りよがりで自我に執着しているとは思ってもみませんでした。

 師父は私が悟らないのをみて、私に忠告する同修を按排されました。1人の他所の同修が年越しのため、やってきました。その同修は私に会うと、こちらの同修は皆私に意見があると伝えました。それを聞き、私は非常に大きな衝撃を受け、本当に棒喝でした。その同修は忍耐強く私と交流しました。私は少しずつ自分の不足が現地の同修たちにもたらした影響と損失を認識できるようになりました。一度、1人の同修が他所に引っ越すことになり、その同修は私のことが心配で慈悲で穏やかな口調で、相談の形で私の不足を指摘し、私の不足の多くを話してくれました。

 翌日、私はパソコンを開き、師父の『オーストラリア学習者に対する説法』のビデオを見ました。30分くらい経った時、すべてが分かってきました。その時、私は真面目に自分を反省することができました。自我に対する執着があまりにも強く、怖いほどでした。私は発正念をして、自我に対する執着心、独りよがりの心、功名心、自分は非凡だと思う心などの多くの人心を取り除こうと決めました。私は少しずつ穏やかな心持ちで相談したり、体験交流することができるようになり、以前のように命令しなくなり、これまでに自分が傷つけてきた同修達に謝り、彼らも私を許してくれました。

 そうすることで我が地区は全体をなし、互いに協力する中で、人を救う効果がますますよくなりました。あれから私は、常に自分に警鐘を鳴らしました。絶対に自分を偉いと思わないこと、何かあったら同修と相談するようにしました。同修らは皆たくさんの長所を持っています。

 二、師父はすべての面倒をみてくださる

 現在、私は同修のいろんな現れに直面することができます。以前なら、もし法に基づいていない同修が見えたら、その同修と交流し、どうすれば正しいのかを説得していました。時には師父の法をもって、自分の観点の正しさを実証し、交流の主題はいつも自分を変えるのではなく、他人を変えることでした。誰にどんな不足があり、誰が学法する時眠っているとか、誰が発正念をする時掌が倒れているとか、誰は親の情が強いとか、誰は利益の心が強いなど多くのことを指摘していました。

 その後、学法の中で多くを師父から悟らされ、これらの現れはすべて正常なことであり、いずれも人間が修煉しているからであり、不足があることはどれも正常であり、すべては師父の管理下にあり、師父の秩序ある按排の中で修煉しているのだとわかりました。同修の不足が見えたのは、私に同修と交流するように、同修を変えるのではなく、自我に対する執着をなくし、同修を包容し、寛容するように機会を与えてくださっているのだと思うようになりました。

 また真相を伝える中でも、自我に対する執着を放下しなければなりません。以前同修が真相を伝えていた時、私は聞きながら私より下手だ、このようにあのように伝えるべきだと思い、発正念をして協力することを忘れていました。一度、私は1人の同修と遠い郊外に行き真相を伝えました。草刈りをしている女性に法輪功の真相を伝えました。その女性は少年先鋒隊から脱退すると言いました。その後、私は自分の考えに従って、演説するようにたくさんのことを話しました。共産党の歴代の政治運動など、非常に全面的で、すばらしく伝えたと思いました。その結果、その女性は脱退を断り、私たちに対して非常に反感を表しました。長い時間をかけて私はやっと悟ることができました。私は独りよがりで、他人のフィーリングを考えず、他人への配慮が欠けていました。彼女は知識も収入もなく、歴史と政治を知らず、ただ懸命に生きようとしていただけでした。私の話は彼女に興味のある話題ではなかったため、彼女は聞きたがりませんでした。真相を伝え、人を救うには、多くの修煉の要素が絡んでおり、向上する機会もその中にあります。

 それから、私は同修と一緒に真相を伝える時、同修がどんなふうに話しても人を救うことであり、人を救うことができると思い、正念で加持し発正念をするか、あるいは協力して少し説明を加え、無条件で協力するようにしました。同修の不足を見つけようとせず、経験を模索しながら人を救っている、かつ直面している衆生はみな異なると思いました。私達の心に法があり一心に人を救おうとすれば、師父は私たちの智慧を開いてくださり奇跡も現れます。このような奇跡はたくさんありましたが、ここで一々述べません。

 今、私は非常に気が楽になり、心が疲れることがなくなり、大きいことにせよ、小さいことにせよ、今までのようなやり方をすべてやめました。同修はみな自分の道を歩んでおり、多くの場合、自分で解決できます。みな修煉して成熟する機会をもつべきです。私が師父の按排されたこの修煉の機会を乱してはいけません。

 現在、私は自我を放下し、同修達と協調する中で修煉しており、法を多く学び、内に向けて探すこと、同修のことが気に入らない心や各種の人心を取り除くように努力しています。また、自分の思想の中の中国共産党文化の思惟形式をタイムリーに見つけて解体し、同修達の長所を多く見るようにし、自分もなるべく向上して人を多く救うようにします。すべては師父の秩序ある按排の中にあります。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/18/343960.html)
 
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