「欲」を捨て去ることについて語る
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文/中国広州の大法弟子

 【明慧日本2017年4月11日】師父は「人間の利己心や貪欲、愚昧、無知が人間の善良な本性と入りまじって、無知に造っている、間もなく自らに振りかかろうとしている一切のことが社会をひどく蝕んでいます」[1]と説かれました。

 貪欲、占有欲は人類の罪悪を構成します。欲の中で最も大きなものの一つは色欲と性欲に他ならず、万悪淫を首とする(ばんあくいんをはじめとし・すべての悪事のもとは、何といっても女色にふけることからはじまり)と言われ、どれだけの世の中の不慮の災難を作ったでしょうか!

 ひとつ深刻な教訓があります。古くからの物語の中、上帝は天使のリリスが執着し、要求していた肉体を与えました。リリスは肉体の快楽に溺れ、落ちて魔になりました。彼女はそもそも天使であって、本来は再び昇華すれば、真の神の生命になれるのに、完全に肉欲によりだめになりました。欲は恐ろしく、惨烈(さんれつ・きわめてむごたらしいこと)で、人を驚かせます。

 高次元生命の生まれた本源境地は、欲がなく、大自在で、清らかで、純粋です。しかし、旧宇宙の生命に私(し)が生まれ、この要素はそもそも無邪気で、純正で、透明で、軽やかな生命に現れた後、その生命を変異させ、悪くさせ、そして落ちてしまいました。人間のこの次元まで落ちると、何もかもなくなりました。ただ人体の本能だけが残り、人間は肉体の身体で動いてこそ、やっとやりたいことを全うできます。しかし、人間が生まれつきもっていた本能は、外在的な物質を重くみるようになり、少しずつなくなりました。人間はまたさらに外在的な物質自体に依頼し、人間は生きている中、至るところで自在でないことを感じます。

 しかし、高く修めるにつれて、物質に対する需要がますます淡くなり、物質的解脱はますます多くなります。

 精神的な層の面において、生命が下へ降りるにつれて、最低次元に至った時、生命はすでにそれぞれの足りないところがありますが、人間として現れてくると、末劫の末劫において、人々は普遍的に金銭のもたらした物質的なものを享受し、情欲のもたらした人体の肉身の享受に対して過度に追求するようになり、とうとう自分を破滅に導いていきます。

 修煉中の人たちにも自分が気づきにくいたくさんの欲を持っていて、非常に正常なものとみなされています。例えば、女性の修煉者は異性、あるいは配偶者に配慮されたら、その温かい関心と愛を享受することが好きです。1人で長く暮らしていた人は外からのぬくもりを受け取り、人は食べたり、飲んだり、遊んだり、楽しんだり、旅する中で人生のいろんな歓楽にふけります。若者は韓国ドラマを観ることが好きで、それもドラマの中で、現実の中で得られない種々のロマンチックな温かさや美しさを得られるからです。女性達はスターの身なりを見てまねることが好きです。なぜなら、自分もそのように美しく、人を魅了したいと渇望しているからです。これらのように、人はみな自分の持っていないものを追求したがりますが、自分がかつて何もかも持っていて、しかも本来持っていたものこそ、真に美しく、純粋で、神聖なものであったことを忘れています。

 1人の精進して着実に修煉する者として、大法を修煉する中で昇華して、法を悟った喜び、荘厳さ、殊勝さ、神聖さ、これらのことは、物質と人体を享受する低レベルのものを、遥かに、遥かに超えています。

 陰陽のバランスが崩れたことは、性欲の源の一つでもあります。普通なら、一般的な肉欲は西遊記の中で提言されている、人が修煉するには目、耳、鼻、舌、意、身の六賊があります。人間はまずこの六つの外来の侵入者を打ち破らないといけません。ここで我々が口に出しにくい「性」について述べてみます。

 「性欲の重い人」こそ、肉体のエネルギーに対する需要が重く、ますますその中に溺れ、ますます自分を見失っていきます。人は生命の中に、佛性もあり、魔性もあります。人の生理、身体の基礎の中にも魔性の要素が植え付けられています。しかし、魔は人間の魔性の一面を強くさせ、最も得意な手法は他でもなく、性欲をもって、人をコントロールし人を台無しにすることです。

 魔は人間世界に「歓楽」という罪悪の誘因を撒き散らしました。他でもなく、この歓楽が人には見抜き難いのです。人は性愛の歓楽の中で、肉体がもたらした楽しみ、心地よさ、満足、快感、刺激、癖などのため、性欲から抜け出し難く、魔が人体のエネルギーを吸い込む道具となり、人間の先天的な「精華の気」はすべてなくなります。

 この魔の面目は普段迷いの中にいる人には見抜くことが難しく、それは人類の身体を幾千万年占有してきており、人の思惟を制御することによって、人から離れようとせず、もったいなくて、断欲したくなく、戒めを守られなくて、実際にそれも離れたくなく、死にたくなく、人体から離れようとしないからです。しかし、人はそれを身体の正常な反応だと思い、自分がこうしようとしていると思い込みます。!

 いわゆる「誘惑」とは、みな魔が派遣してきた戦闘部隊です。例えば、常人はみな知っていますが、人間はほんの少しの軽やかな誘惑にも抵抗しきれず、一瞬にして没落し、千百年以来、性欲に敗れた人はどのくらいいるでしょうか。たとえ、1人の常人の作者が書いたように「肉体に対する人間の需要と性欲は、一体どれほどの人を迷わせたのでしょうか。これは人間性自体が直面できない、あえて直面しようとしない深淵なのです」。

 人間は欲望を放縦すると魔の民になります。小さいこととしては、人は喫煙し、酒を飲みますが、すべて魔が与えてくれる「小さな歓楽」を求めることになります。大きいこととしては、麻薬を吸い、性を乱すと、魔が与えた「強烈な歓楽」を求めることになります。その類のものはただ魔だけが人間に与えられます。

 生命はこのような誘惑を受け入れる時、欲望の虜(とりこ)となり、言いなりになり、魔の爪の元での遊び物になり、即ち入魔したことになります。少なくとも、彼がこの悪事を働く時、彼の天体の一部は汚染され、引っ張られて落ちてしまいます。

 断然(きっぱり)と毅然(自分の信念を貫くしっかりした態度で臨む様子)たる態度で、この誘惑を断ち切ると、人間は神になり、人間は聖なる境地へ昇華することになります。

 誘惑が現れた時、最初の念が「滅」であり、法の中で修め出した正念と決心でそれをきれいに滅すには、必ずこのような剛毅(ごうき・意志や心が強く、くじけないこと)な決心がなければならず、そうであれば、正念で邪な魔を滅することができます。

 少しの惜しむ心があってはならず、一切残してはいけません。例えば、ほんの少しの気づきにくい保留もあってはならず、少しでもあれば、それは魔が蘇(よみがえ)る原因となります。

 同修よ、絶対に人間の歓楽を少しでも求めて、自分の神聖な身体を踏みにじってはいけません。特に私達は一般の修煉者ではなく、万古以来、はじめて正法を得て、真に神の道を歩んでいる生命であり、私達には最も偉大な師父がおられます。私たちは自分の責任を認識し、一つの大窮の主として、大法弟子として、必ず正しく歩むべきです!

  あなたは一体人間になりたいですか、それとも真に神になり、聖人になりたいですか?

 かつて「情」、「色」、「欲」の方面で間違いを起こしたとしても、引いては大きな罪を犯した同修であっても落胆し、消沈し、自らギブアップしないで、自分がかつてどこで間違っていたかをはっきりと認識し、真面目に着実に師父の説法を学んで、心を修めるべきです! 明慧ネット編集部の文章、および明慧に掲載された多くの優秀な交流文章もある程度の作用が働きます。

 重要な点は、絶えず発正念をしないといけないことです! なぜなら、便所の肥(こえ)つぼが千百年間汚い状態にあって、とてもぶ厚くて頑丈にへばりついているのと同様に、かつて汚染された自分の空間場は1回、2回、数回では、とても、とても綺麗にすることができず、何回も、何回も、何回も強い正念ですべてのゴミ、汚物を取り除かないといけません。決して緩めてはならず、歓喜心が生じてもいけません!

 ここで一つの問題を追加して説明したいと思います。それは若い女性の修煉者が注意すべきことです。

 法の中で修煉が向上するにつれて、女性の同修は断欲の方面で男性の同修よりよくできているかもしれません。「情、欲、色」のような低次元のエネルギーにはすでに免疫力があります。それらの低次元のものは女性の同修の心を動かすことができず、1人の常人もすでに女性の同修を動かすことができません。しかし、比較的よく修めていて、法理が非常にはっきりとしている男性の同修に好感が生じるかもしれず、彼の優秀なところに心が動じるかもしれません。この「情愛の心」も人体に作用を働き、精神的に名残を惜しみ、そして、本来非常に軽くて、弱かったはずの「情欲」を強くさせるかもしれません。その時、必ず警戒し、慎重にならないといけません。必ず冷静になり、それがどういうことなのか、はっきりと認識しなければなりません!

 大法の修煉の中で、次元が向上すればするほど、高い次元の外部からの誘惑を突破し、本当に「欲」がない状態で、私達の生命の本源に戻り、完璧で、最も善なる、最も美しい状態に戻らないといけません! もし、外力に心が動かされれば、自分の世界に震動をもたらし、バランスが崩れるかもしれません。ここまで書くと師父の法の一つのフレーズを思い出しました。「いかなる佛、いかなる道、いかなる神、いかなる魔に対しても、心が動じることがなければ、必ず成功するに違いありません」[2]。

 最後に、同修の書いた文章『歴史の天空:色欲の執着心を取り除く』の中で、作者の善勇さんの悟ったことを借ります。「私たちは法を正す時期の大法弟子です。もし私達が修煉のなか、心身の経験した苦痛で無量な神々の生命を取り返すことができれば、もし私達が支払った心身の代価で、宇宙の衆生のために、新しい宇宙のなかで最も美しい生存環境と生存方式を切り開けるなら、それは如何に有意義なことでしょうか! それと比べると私達が舐めた苦しみはまた何者でしょうか?」

 トラブルに遭遇した時、もし私達が角度を変えて、本当に相手の角度から考えることができれば、必ずすべての執着を取り除くことができます! 同修が法理の上で、さらに純正な指摘と交流があることを期待します。ありがとうございます! 合掌

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「再び人類を造る」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/19/344459.html)
 
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