文╱中国の大法弟子
【明慧日本2017年4月12日】現在中国では、同修達は迫害された同修のためにに弁護士を頼み、弁護してもらい、多くの財力や人力を投入しています。ここでは、同修を救出し迫害に反対する過程において、自ら認識し体得したものを書き出し、皆さんと交流したいと思います。
一、同修を救出する過程で、「真相を伝え大法を実証する」出発点を明確にする
真相を伝え、人を救うことは、師父が繰り返して強調されたもので、法を正す期間の大法弟子の使命でもあります。私達は実際に行う時、基点を「真相を伝え、人を救い、大法を実証する」ことにすれば、私達は法に則っており、宇宙の特性に同化していることになり、これから先の道も自然に開かれ、師父と神々も私達に加持してくださるでしょう。
迫害を受けた同修は、多くの場合心性に漏れがあり、その漏れが迫害の口実になるほど大きくなっています。それなら、私達が救出する過程で、警察、検察、裁判所の人々に真相を伝える時、もし同修個人のことをあまりにも強調し過ぎると、旧勢力は「彼らには大きな人心があるから、我々は彼らにその人心を取り除かせようとしているのに、お前達はそれを妨げて、彼らを救出しようとしている」と思うでしょう。そうすれば、旧勢力は同修に向上させようとすることを口実にし、同修達をしっかり掴んで手放さず、あるいは私達をよりいっそう妨害し、問題をより複雑化するのです。
ところが、もし、私達が同修を救出することをきっかけに、真相を伝え、人を救い、大法を実証することにすれば、旧勢力はもうぐうの音も出ないでしょう。なぜなら、私達は法理に則っているので、旧勢力も反対する事ができず、私達の隙に乗じることができなくなります。こうすれば、私達は同修を救出する時、妨害が少なくなり、道も開かれて行くでしょう。
二、「俗世にいながらも、念はこの世にありません」[1]をやり遂げる
ここで強調したいのは、法理が分かっていても、実際にやって見ると、気持ちが知らないうちに同修の救出に傾いてしまい、思わず迫害された同修がいつ釈放されるか、何か結果が出ないかなどを期待してしまいます。ここが一番難しいところではないでしょうか。
もし私達が本当に真相を伝えるという基点に立てば、同修を救出する過程で、留置場、公安局、検察庁の誰に対しても、入口の警備員に対しても、案件の担当者に対しても、私達は大法を修煉して受益した事実を伝え、今同修が大法の修煉を理由に迫害を受けていること、「天安門焼身自殺」や「傅怡彬の殺人事件」などはすべて法輪功学習者がやった事ではなく、中央テレビが文革のやり方で人を迫害しようとした真相を話し、さらに、中国の法律では法輪功を邪教と決められていないのに、私達がどのような邪教を利用し、どのように法律の実施を破壊したのかを問いただすべきではないでしょうか。
そうすれば、私達は人を救い、真相を伝えることの原点に立ち、明確に大法を守り、大法を実証し、形に流されず、迫害された同修個人の事を強調し過ぎないようにすれば、旧勢力は私達の隙に乗じることが出来ないでしょう。これが重要なポイントではないかと思いました。
三、法律や弁護士に依頼しすぎない
常人の弁護士も大法のために来ており、法律も大法のために存在するものです。私達は迫害に反対し、大法を実証し、同修を救出する中で、必要に応じて好きなように選択して使用すればいいのですが、決して常人の法律と弁護士の枠には嵌(は)められてはいけません。もし、私達が法律と弁護士に期待しすぎると、執着を形成してしまい、旧勢力の迫害を招かねません。なぜなら、いくら法律について話しても、弁護士を要請したとしても、法律の決定権と主導権は警察、検察、裁判所の人達の手に握られているのです。私達が真に法に則って行えば、はじめて主導権を握る事ができるのです。
だから、私達は彼らに法律について話すだけでなく、更に法律以上の道徳や良知を話し、大法の真相を話し、道徳と良知こそ人心を変える唯一のものだと話さなければなりません。もし、警察・検察・裁判所の人たちが、天安門焼身自殺は大法弟子の行為だと信じていれば、たとえ法律上理屈が不十分でも、彼らは権力を使って、わざと私達を困らせるようなことをするでしょう。なぜなら、彼らはそのような殺人事件や焼身自殺は大法弟子がやったと思い込み、私達が悪者だと思い込んでいるからです。ですから、私達は法律だけではなく、道徳の角度から基礎の真相(天安門焼身自殺、傅怡彬の殺人事件)をはっきりと説明し、できるだけ彼らから大法弟子に対する理解と同意を得るように努力しなければなりません。そうすれば、彼らも救い済度されることになります。
大法弟子として、三つのことをしっかりと行えば、はじめて迫害を解体することが出来、はじめて同修を救出する過程で世間の人を救う事ができるのです。困難が大きければ大きいほど、私達は内に向けて探さなければならず、それによって、問題解決の方法を見つけなければなりません。今の時間は大法弟子が法を実証するため、衆生を救うために残されたものです。もし、法律に頼りすぎ、弁護士に期待しすぎるならば、外に向けて探す事になるに違いありません。そうすれば、旧勢力も同じように私達を妨害するでしょう。弁護士を依頼する事自体は間違っておらず、私達の権利でもありますが、しかし、心の中ではそれはあくまでも二の次の手段に過ぎず、大きな役割を果たすのは大法弟子自身であることをはっきりと分かっていなければなりません。
時には弁護士は当事者と会見し、法廷で弁護する時、たくさんの困難に遭い、どうすることもできない場合も多くあります。ですから、私達が法に則って行えば私達に巨大な保障をもたらし、私達を優位に立たせる事ができるのです。
以上は同修を救出する過程で、絶えず内に向けて探すことによって得た経験と体得です。迫害に反対し同修を救出する同修に少しでもお役に立てばと思って書き出しました。私達は何かをする前にまず法に則って、心性を高めることができれば、それ自体でも迫害を解体し、大法を実証することができるのです。そして、実際に行う時、もっと自信を持って行うことができるようになります。
言うのは簡単ですが、やり遂げることは決して容易なことではありません。内に向けて探して、はじめて気付かない人心が見つかり、そして、その心を法によって正すことが出来て、神々ははじめて私達にこれからの道を開いてくださるのです。
少しの体得ですが、気づいた問題を書き出して交流したいと思いました。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇五年マンハッタン国際法会での説法」