自我を放下し 衆生のために責任を負う
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文/中国 ハルビンの大法弟子

 【明慧日本2017年4月14日】中国共産党による法輪功への迫害が続く数年来、同修が不当に連行される度に、私たちは当地の大法弟子が衆生を救い、法を実証することにさまざまな損失を受けて来ました。迫害に直接加担していた者が受けた悪の報い、迫害に遭った大法弟子の友人の大法に対する態度の変化、さらに気象の激しい変化、たとえば、まったく雪が降らない冬もあれば、連続的な大雨、狂風、霾(ばい・黄砂)などなどの有形無形の損失は本当に計り知れないほどありました。

 師父は『洪吟三』の「世々生々は此の一生のため」の中でこのようにおっしゃっています。「法徒は魔難を受け 毀されるのは衆生」。私たちの誰が真に、大法弟子が迫害される過程において衆生が毀(こわ)される程度が理解できるでしょうか? 古代の竇娥とうが・竇娥冤「とうがえん」は、関漢卿によって書かれた元曲。元曲最大の悲劇と評価される。 主人公の竇娥は、主人に先立たれ未亡人となり姑と暮らしていた。竇娥はならずものに言い寄られ、それを拒むとなら ...)が冤罪で命を絶った後、楚州の庶民は3年間の大干ばつに遭いました。まして罪のない多くの大法弟子が投獄されれば、状況はなおさらでしょう。

 大法弟子として、私たちの責任と使命は大法を実証し、衆生を救うことです。師父の説法から分かるように、大法弟子の今生の修煉は自分の正念を強め、衆生を救うためです。大法弟子は無条件に自我を放下し、無私無我の境地に達し、法を正す師に手伝って衆生を救っていくべきです。しかし、旧勢力の按排は個人の修煉を目的とし、自我を成就して衆生を壊滅させることにあります。そのため、迫害を否定し、制止し、衆生のために責任を担っていくことは、われわれが避けては通れない責務なのです。

 個人修煉における自我の放下に関して、私の理解では、表面的に言えば個人の喜怒哀楽、七情六欲の放下であり、深く言えば個人の認識や見解の放下、さらに自分の悟った法理への執着の放下などなどがあると思います。大多数の執着心は「自我」を放下できないことからきています。無条件に内に向けて探し、各次元の自我を解体して無私の境地に達し、大法が私たちに要求する異なる次元での基準に達することは、何人が成し遂げられているでしょうか?

 例を挙げてみます。たとえば同修間で怨み言を言うと、それによって発生するマイナスのエネルギーは原子爆弾が爆発する力に相当します。なぜそう言えるかと言うと、私たちが修煉で修めているのはまさに原子、原子核、電子、中性子などのミクロの物質です。原子爆弾が爆発する際にもたらす殺傷力は人類にとって壊滅的です。想像できますか? 同修間の怨み言も原子爆弾が爆発するように衆生に損害をもたらします。もし本当にそうなら、あなたはまだ怨む勇気がありますか? わざと大げさなことを言ってあなたをぎくっとさせているわけではありません。

 また、大法弟子の自惚れ、自我への固執や修煉における怠惰や厳粛でない現象もありますが、衆生のことを考えて、もしあなたの執着の一つ一つが衆生、またはあなたの同郷の人たちに壊滅的な災難をもたらすのなら、それでもあなたはその執着に拘(こだわ)りますか? 協調のための講演、「全体」のための遊説、そして同修一同の向上のための交流ですが、内に向けて探せば、それらの行為はどのくらいのプラスの効果を果たしたでしょうか? 一体何を成し遂げたでしょうか? 基点は本当に衆生のためだったでしょうか? それとも自己満足のためだったでしょうか? 非難するつもりはありません。私自身も実はその内の1人で、ただ絶えず内に向けて探し、いくつかの現象に対して個人の認識を述べているだけです。

 私たちは自我を放下し、衆生のために責任を負い、互いに協力、円融して、無私無我の真の修煉群体を形成し、真に脈も無くツボも無い境地に達していかなければなりません。無数の衆生、天国の家族は待ち望んでいます。一時、私は留置場まで連行されたある日の夜、夢をみました。すべての天国の家族は私を見舞いにきて、泣いて、泣いて、泣き続けていました。本当に彼らに申し訳なく、申し訳なく思っています。本当に!

 次元の限りがありますので、適切でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします!

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/6/345180.html)
 
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