闘争心から考えおよんだこと
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文/中国の大法弟子 軽浄

 【明慧日本2017年4月16日】中国共産党文化に影響され、中国では人々の闘争の理念は非常に深刻です。幼いころから学校に入ると、強者が王、ジャングルの掟(訳注:弱者が強者の支配を受けている状態)などの人間関係について教わり、今の社会は極めて緊張した状態になり、闘争心が極めて深刻に現れています。特に若い世代に徹底して余すところなく現れています。互いに不服に思い、嫉妬し、自分に理があると人を許さない、意地のため刀や銃を取り出します。話す時、相手を貶すことで自分の立場を優位にし、生活の中でたくさんこのようなやり方をしています。修煉者としての私には、思想の最も深いところに時折、闘争心が現れ、場合によっては常人より深刻な場合もあります。

 幼いころ、私はテレビに映っている、弁論のうまい人を崇拝していました。彼らは非常に強く他人を説得することができ、相手が返答に窮します。彼らは視聴者からひとしきりの拍手をもらっていました。私は彼らをアイドルとし、幼いころから自己中心的になり、毎回、大人にはよく悶着をつける子だと言われました。どうして、こんなことをしているのかと問い詰められた時、その理由を答えられず辛い思いをしました。それから、毎回このようなプログラムを観る度に、自分が以後弁論するのに有利な言葉を覚えておき、気づかないうちにそれを取り出しては言い、復習して、それらを異なる場面で使っていました。その時、私はいつも自信満々で、他でもなく相手を言い負かせ、理を掴んだらとことん追い詰めていました。ひいてはたくさん侮辱的な言葉を使用し、それは説得性を強くさせるためでした。書籍を読みテレビをみては、自分なりに真理だと思う言葉をたくさん学びました。毎日頭の中で、もし誰かがこの問題を討論するなら、私はこのように答える、あのように言える、この問題はこのようにみて、あのように分析すべきだといろいろ考えていました。他人が私の考えを認めてくれたら嬉しくてたまらず、自分は本当に能力があると思っていました。他人が認めてくれない時は不愉快になり、他人が自分ほどよく理解できてないと思いました。毎回友人と交流する際、相手を自分より低く置き、自分は秀でていると優越感を持ちました。あなたはどうしてこうだか知っていますか? あなたはこのことがいかに発生したか知っていますか? まさに私が言った通りではないですか? 時には声がうわずって、口喧嘩をしているようでした。周りの人は私にそれほど激高しないようにと勧めました。心が静まるとやはり自分に一理あると思い、自惚れていい気になっていました。

 修煉してから、ある次元で師父の説かれた法を理解できました。私は自分の闘争心はすでに非常に淡々としていると思っていました。しかし、時には気づかないうちに激しく現れてきました。他人と論争する時の考えや言葉づかいにも、真相を伝える時にも、比較的過激的な言葉づかいをしたり、相手を圧倒したり、問い返したりして、自分を実証しようとしてきました。他でもなく、相手に私を認めてもらおうとする口ぶりをしたり、ひいては時に他人に否定されたらイライラし、この人はもう救えない人だ、私が何を話しているか分かってもらえていない、ほっとけばよいと思ったりしました。これらを考える度に、私は自分の学法が深くできておらず、修煉がまだまだ充分できていなくて、少しの慈悲心もなく、これでどうやって衆生を救い済度する気なのかと情けなく思いました。時には自分が常人よりも劣っているとさえ感じました。

 闘争心の現れはこれだけに留まりません。時には夢の中まで現れます。一度は夢の中で高校の授業中、政治の授業で教えてもらったものはすべて中国共産党を賛美する内容でした。もちろん私は授業には参加していません。現実では政治の授業を受けたことがありません。なぜだか、演壇にいた先生が突然話題を法輪功に変えました。先生の話を聞き、私は直ちに机を叩きながら立ち上がり、先生を罵り始めました。法輪功の何があなたに申し訳がないのですか? 社会上の悪人をあなたはなぜ管理しないのですか? 見てください。いまの毒入り食品、毒入りのワクチン、汚染された空気などなにもかも毒が入っています。法輪功は人に良い人になるようにと教えていますが、なぜあなたの批判する対象になるのですか? とまくしたて、それは本当の罵りでした。紛れもなく夢の中で、まるで長い間我慢していた人に対する不服が爆発したかのようでした。罵られた先生は返す言葉を失い、クラスメートは全員私を見つめていました。

 目覚めた後もその闘争心は心の中でしばらくの間留まっており、当時、私は驚きました。どうしてこうなのか? また何回かの夢の中では、口喧嘩だけでなく人を殴っていました。それは他でもなく、闘争心、恨む心で、夢の中で私は別人になっていました。私の闘争心はなぜ一気にこれほど深刻になったのでしょうか? 普段は気づかなかったのですが、私はすぐに師父の説かれた説法を思い出しました。「昼間はしっかりしていますが、夢の中だと、駄目になるという修煉者がいます。これは彼の思想の深層ではまだしっかりしていないので、夢の中でしっかりしているかどうかを試練しています」[1]。

 この闘争心は普段面子を気にする心、人に否定されたくない心に隠されていましたが、激しくぶつかった時、やはり現れてきました。真相を伝えるときも人と争う心理をもっていて、問い返しで自分の口ぶりを強化することが好きで、これはすでに習慣になっていました。以前はこれに不適切なところがないと感じていました。本当に他人の身になって経験した時、やっと問い返しはそれほど人を傷つけ、相手は私と話す気力さえ失います。深刻な時はわざと悶着を起こすことになり、ひいては相手が私と争うことをやめてしまいます。私は衆生を救い済度しなければなりませんが、これでは衆生を下へ推しているのではないでしょうか。不意の問い返しで相手は話し合うことに飽き、嫌になります。これは党文化ではありませんか! 中国共産党のものを真相伝えに交えたら、私達が言い出した言葉は善なのでしょうか。世の人々の背後の邪悪な要素を取り除くことができるでしょうか。問い返しが好きな人は他でもなく、この闘争心が現れています。理を掴んだら人に問い返します。ひいては話す時、非常に激高して人を圧する態勢です。これは闘争心ではありませんか? 毎回これを思い出すと私は特に怖くなります。私と話したことがある友人はみな知っています。ただ彼らが面子のために言い出せないだけです。このような状態ではいかに大法の素晴らしさを世の人々に現すことができるでしょうか? 「真・善・忍」を私はどのくらい実現できるでしょうか? これは他でもなく、中国共産党の「偽、悪、争」ではありませんか?

 私が意識できたこの闘争心はただの執着心の問題だけではありません。すでに大法を実証し、人を救うことに影響しています。修煉してから、自分の党文化はすでに完全になくなっていると思っていました。不意に使用したあのような口ぶり、あのような不平をこぼす口ぶりは、ちょうど旧勢力に掴まれ口実になってしまいます。そして、この方面の闘争心を強化して、真相を聞く人々に大法に対して理解できないように、認めないようにさせます。私達が真相を伝える目的は衆生を救うためであり、中国共産党と闘争し、それを暴露するためではありません。

 その時から、私は問い返しの危害を認識し、それを取り除くことにしました。このような闘争心を持っていては、衆生を救い済度することができません。私は自分をしっかり修め、時々刻々自分の言葉使いに気をつけ、毎回相手の立場に立って自分が話した言葉を点検してみました。この言葉を相手は受け入れられるかどうか、この言葉を露骨にならないように言うにはどう言えばいいか、本来の意味を分かってもらうにはどう言えばいいかなどと考えるようになりました。問い返しを少なくするようになってからは、真に自分の口ぶりが穏やかになり、友好的になっていき、あの闘争心もめったに現れることがありません。

 もちろん闘争心は言葉だけでなく、他の方面でも現れます。しかし、私は確かに言葉にも闘争心が現れると認識しました。しかも、不意の一言に闘争心と各種の心が含まれています。それを他人が聞くと心地悪くなり、聞きたがりません。これは真相をはっきり伝えることに障碍をもたらすかもしれません。師父は「人間の考えに一つの弱点があります。皆さんは長い間真相を伝えるとき、このことに気づいたのです。つまり、先入観のことです」[2]と説かれました。私達が人に与える第一印象が良くなければ、その人が物事を判断して、分別することに障碍をもたらすかもしれません。真相を伝える時も同様です。時には相手は大法とは何かを聞いたことがないかもしれません。しかし、人々は大法弟子の一つの言動から大法の素晴らしさを目にし、そして済度され救われるかもしれません。大法を実証するとは、私の理解では真相を人に伝えるだけではなく、自分の言動の中に修煉者特有の気質を秘めることです! 大法弟子が携えている、すべての正しくない要素を正すことができるその場こそ、至高無上の佛法の人間世界での現れです! 一瞬にして、正念を相手の思想の深いところまで打ち込むことができるのは、善な言葉と慈悲な心だけです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「新唐人テレビ討論会での説法」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/7/345255.html)
 
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