「忍」のなかの大自在
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年4月16日】人々は「忍という文字の上にはひとつの刃物がある」とよく言います。忍の話をすると、多くの人は苦しみを思い浮かべます。この苦しみの「忍」と「大自在」をどうやって同じ土俵で量れるのかと、納得いかない人がいるかもしれません。常人は自分の名、利、情の得と失のために喜んだり、憂えたりしています。

 修煉者として忍のなかで執着をはっきりと認識し、それを取り除いてはじめて人間から抜けだすことができます。例えば、私達が他人に無実の罪を着せられたり、責められた時、我慢できずに論争したり、明らかにしたりする時、口調がますます激しくなります。その時、あなたは自分の名声を守るために心が動じていませんか。もし、辛い思いに耐えて自我を修めれば、無実の罪を着せられ非難された時、怒ることもなくなるでしょう。その時のあなたは人間のなかのすべてのことから抜け出し、外からそのことを視ていて、誰が正しくて誰が間違っているかを論争することもなくなり、それは他でもなく大自在ではありませんか。しかし、どのくらいの人が本当に「忍」を全うした後の大自在になれるのでしょうか!!

 師父は「忍の中に捨があり、捨てることができることは、修煉の昇華です」[1]と説かれました。「忍」が苦しいと思う同修は、苦しんでいるのは誰か、はっきり分別してみることができます。それが本当のあなたでしょうか、それとも偽物のあなたでしょうか。私達は法理がはっきりした時、それは後天的に形成された観念であり、思想業力という偽物の自分が苦しんでいると気づきます。なぜなら、私達が欲望や、誘惑に耐えている時、それらはますます弱くなり、最終的に消滅されるからです。しかし、私達の本当の自分はちょうどその中で昇華し、汚れをきれいに洗い流します。

 身体の苦しみは、歯を食いしばれば耐えられます。しかし、思想のなかの誘惑に忍ぶことは非常に難しいのです。常人社会の様々な誘惑のなかで、心を動じないことは非常に難しく、もし我慢できなければ、さらに魔性に制御されて、自分の行為を放縦してしまいます。たとえ、我慢して行動に移さなくても、思想上我慢できず、それを考えればそれは本当の排斥とは言えず、さらに自身の執着を大きくさせることになります。携帯電話やテレビの誘惑に耐えられなければ、思想のなかの夢中の遊び、八卦、美色、情などに対する執着と欲望を助長します。美食の誘惑に耐えられなければ、味蕾(みらい・舌や軟口蓋にある食べ物の味を感じる小さな器官で、人間の舌には約10,000個の味蕾がある)を追求する刺激から抜け出せません。美色の誘惑に耐えられなければ、汚い人間の殻の中に陥って夢中になり、楽しんでしまいます。

 ですから、私たちは良くない念が浮かんだ時、タイムリーにそれを掴んで消滅し、幻の名残惜しを切り捨てることができてこそ、本当に良くない物質を解体することができます。この過程において、最初は苦しいのですが、考えないようにして我慢しなければいけません。それと徹底的に別れることを惜しむことは、すべてあなたの主意識を邪魔している後天的な観念と業力であり、真のあなたではありません。しかし、あなたが本当に決心して、それを切り捨てた後、あなたは一気にその障碍を破ることができ、昇華してきます。その時、忍は苦しみではなくなり、心身とも昇華した後の幸せとなり、言葉では言い表せない素晴らしい境地となります!!

  注:
  [1]  李洪志師父の著作:『精進要旨』「漏れるところなし」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/12/345522.html)
 
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