文/台湾の大法弟子
【明慧日本2017年4月17日】大法弟子の開催する法会は殊勝かつ荘厳であり、法会に参加した同修個人の修煉に対して非常に大きな促進作用を働きます。今日交流したいことは、2013年のニューヨーク法会に参加してから後に私の身に実際に起きたことです。この魔難をどう乗り越え、人為的に魔難を増やさないように、学法の面でどのように歩んできたかを交流したいと思います。
私は学生時代から学法し、煉功してきました。当時学校の環境は比較的よく、学校に宿泊していて、あまり大きなプレッシャーも感じておらず、学法のすばらしさを感じていました。軍隊にいた時も、最初はしばらく学法することができませんでしたが、2、3カ月後、環境に慣れてから、少しずつ学法と煉功ができるようになりました。
しかし、退役してから2日後、社会での仕事を始めるとすぐによその建築現場に移動させられました。現場での仕事は忙しく繁雑で、なかなか慣れませんでした。少しずつでも大法の書籍を手に取ることができず、ただ集団学法の時、あるいは具体的なプロジェクトに参加する前になって、やっと学法しようと思うようになり、このような状態が数年間も続きました。当時の修煉状態は新しい学習者と同様で、学法してもよいが、しなくても大丈夫だと思っていました。時には幸いな心理が大丈夫、大丈夫、以前読んだ大法書籍の内容がまだ頭に残っているから、それに自分を照らせばよいと教えました。
師父は『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』の中で 「私は古い学習者で、しばらく法を勉強しなくても問題はないと思う人がいます。問題があります。いくら古くてもダメです。修煉してできた部分はすでに隔離され、先天の位置まで押し上げられた功は、あなたが法から得た正念が加えられてはじめて作用を働くのです。法を勉強せず、法から離れてしまえば、功を動かすことができません。なぜなら、それが法の力だからです」と説かれました。
また、師父は『二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法』の中で 「しかし、法を勉強せず仕事だけをする人もいます。三つのことを全部やらないといけません。仕事だけをして法を勉強しなければ、それは常人として大法の仕事を行っていることになります。常人が大法の仕事をしていても、円満成就することができず、徳を積んだことにしかなりません。徳を積んで福を積んで、来世に福があり、これしかなく、円満成就することができません。それなら、行ったことは無駄になったのではありませんか? 修煉者は修煉しなくて良いのでしょうか? 心に法があってはじめて、真相を伝えるときに人を救うことができ、話したことに震撼力があるのです」と説かれました。
この数年間、私は明け方に目が覚めると、どうしてまたこのように1日が過ぎたのか、とよく考えるようになりました。いつになったら、以前のように精進する原動力を持てるようになるのか。以前のように毎日学法し、以前のように電気スタンドの温かい黄色の光の下で、大法の書籍を読みふけり、心身とも法のなかに溶け込むことができるのか。しかしこの考えは、また当日の常人の仕事の考えの中に埋もれてしまいます。
2013年、私は同修と一緒に5月のニューヨーク法会に参加し、幸いにも師父の説法を聞きました。帰りの飛行機の夢うつつの中で、「外国へ行くのは容易なことではないが、あなたには他に何か大切なものはありませんか」とある声が聞こえてきました。私は心の中ですぐにもし可能であれば、法を得た初期のように精進する状態に戻りたいと答えました。この時、自分が大きく変わろうと願っていると知りました。
台湾に戻ってからも仕事は相変わらず忙しく、同時に海外の建築現場にも行かなければならず、学法はやはりできませんでした。しかし、私は本当にこのまま自分勝手にしてはならず、なんと言っても、師父の説法を聞いたばかりの大法弟子です。
こうして、2013年9月に私は大きな失敗を経験しました。ある日、我が社の建築現場で事故が発生し、隣の9戸の家が沈みました。多くの隣近所が抗議し、ニュースが新聞に掲載されました。はじめて現場に行った時、ニュースでしかみたことのない理性を失った場面を目にし、圧力が非常に大きく、私に対する風当たりはあまりにも強く、深刻でした。その日、車を運転して帰宅する時、驚きのあまりに、これは一体どういう難だろうか、この漏れはあまりにも大きすぎると絶えず考え込んでいました。
夜家に着いてから、大法の書籍を手にし学法をはじめました。なぜなら、歩む道がないと思いつめていたからです。そして、その日から今日まで、毎日『轉法輪』を一講読んでいます。
師父は『二〇〇三年元宵節での説法』のなかで、「これは本当に問題ですね。執着のことですが、それを表す学習者がおり、表さない学習者もいます。心の中に秘めていますが、執着してたまりません。最後になってそれを解すこともできなくなります。邪悪はあなたをますますおかしくし、大きな挫折を味わわせ、一生忘れないほどの挫折を味わわせています。それらはこのようにやっています。ですからそこまで執着しないでください。問題が現れたら、また師父にどうしたらいいのかと聞いてきます。実は皆さんの執着によって作り出されたのです。師父はそれを放っておかないのです」と説かれました。
それから、学法する態度は回復しました。しかし、私はまるで重病患者のように、内心の深いところではいつか師父がこの難を解決してくださることを望んでいました。特に毎度、建築現場に行き隣近所の長い非難と文句を聞く時、心は苦しんでいました。
幸いに、最初は求める心を抱いて学法しましたが、毎日学法するようになり、大法の書籍を再び手放すことはなくなり、いくら遅くまで仕事が忙しくても必ず学法を堅持しました。このトラブルがどのくらい持続したでしょうか?
私が毎日学法をし出してから10カ月後、このトラブルに突然転機が訪れました。それはある日曜日に9戸の中の3戸の住民が私達と和解し、それから、1年後にはすべての9戸の住民が和解しました。後期になるにつれて、私は心の中での大法の比重は以前のように重くなりました。
そして、修煉の角度からみると、毎日学法を堅持してまもなく、三つの異なるプロジェクトの同修が、私に活動に協力するようにと求めてきました。また、メディアの仕事をする中で5年間使った機器とソフトは、自然に他のシステム制作に移り変わり、まるで師父に押されて歩んでいる感じがしました。
最も印象深かったのは、当時すべてのプロジェクトにおいて、機材が私のところに届く日になると、いつも現場の隣近所に会う日で、本当に機材が手元に届くと、こうして試練を受けなければならず、また機材に対しても、あまり強い期待と歓喜心をもってはならないと思いました。
以上は個人が学法する方面で歩んできた道であり、同修達はこのような間違った道を歩まないようにしてほしくて、交流しました。個人の理解ですが、私達が行うプロジェクトで発揮する効力、智慧と能力は、本当にすべて法から来ているのだとつくづく思いました。
交流はここまでにします。足りないところについては遠慮なくご指摘ください。
師父、ありがとうございます! 同修のみなさん、ありがとうございます! 合掌