何も求めず 純正な心で学法する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年4月25日】法を得たばかりの時に、『轉法輪』を幾度繰り返し読んでも、良い人間になる道理しか見い出せませんでした。他人が法から高い次元の理を悟ったと聞くと、「なぜ自分は何も高い次元の理が見えないのだろか」と気をもんでばかりいました。「本を読む回数が少なかったのでしょうか? ならば、本をもっと多く読めばいい」と悟り、高い次元の理を追い求める目的で本を読んでいたため、結局、良い人になる道理しか見い出せませんでした。もちろん高い次元の理も何も現れてきませんでした。当時、「良い人間になれば、円満成就ができるだろう?」という自分の認識にも戸惑いを感じました。

 2001年、政府に陳情書を提出したため、不当に拘禁されました。拘置所に入った同修たちが師父の『論語』や『洪吟』、そして『精進要旨』を暗唱する姿を見て、慚愧の気持ちでいっぱいになり慌てていました。当時、私は『論語』の一言も覚えておらず、『洪吟』は僅かしか記憶になく、『精進要旨』はなおさらでした。やっと、自分の学法が全く足りてないことに気づき、悔やみきれない思いでした。家に戻った後、師父のすべての説法を揃えて全部読みました。自分が魔難に陥ったのは、心の中に法がなかったためだという事が分かりました。魔難に直面した時に、師父と法を思い出すことができなかったからです。

 1年かけて『轉法輪』を暗記し、その後も、断続的に何回か暗記しました。法を暗記している過程で、自分がいかに求める心が強く、法に対する学習態度が歪んでいたことに気づきました。天目を求めて、法の中で師父が天目を開いてくださることが書かれている内容について、なぜ自分は見えてないのだろと考え、天目の見える同修の話を聞けば、羨ましい気持ちを通り越し、妬(ねた)む気持ちまで出てきて、「自分も天目が開いていたらいいな」と妄想に陥り、求める気持ちが強く現れました。功能を帯びる同修を知れば、興味津々に追いかけて、「自分にもなぜ効能が現れて来ないのか、効能が現れたら、自分は根基の良い人間だと皆に証明できるのに」、等々妄想にふけっていました。また、円満成就を求めて師父の法の一部を取り上げ、法を歪曲し理解していました。師父が法の中で 「将来修煉を成就した時、欲しいものは何でも手に入り、やりたいことは何でもやれるようになります。彼の世界の中には何でもあります」[1]を説かれたこの内容について、円満成就ができたら、楽にすることができる、成佛できることが素晴らしいと浮かれていました。しかし、その続きに 「それは彼の威徳であり、苦しみを嘗めつくして得たものです」[1]と師父が書かれたこの法については、全く目に入っていませんでした。

 学法する態度を正し、すべての求める心を放下し、学法する時に法を無心に通読することが肝心だと思います! 時々、頭が留守になったら、法をもう一度読み直します。そうすれば、学法をしていくうちに心の戸惑も自然と溶けてしまします。法が私たちにまず、良い人間になることから始め、さらにもっと良い人間に、そして、ますます良い人間になり、最終的に、修煉者の基準に達することを要求しています。師父が「今日、誰かがあなたの気に障るようなことを言ったとか、誰かがあなたを怒らせたとか、誰かが失礼なことをしたとか、あるいは誰かがあなたに不遜なことを言ったなど、いずれも常人の中でよく起きる状態ですが、そこであなたがどう対処するかが問題なのです」[1]と仰いました。修煉者として、これらの問題にどう直面すべきか、異なる次元に修煉者に対する要求も異なることや、超常的な形式ではなく、すべての出来事は常人社会の形式で現れること、修煉者として、法の基準に則って行うことができれば、必ず成就できる等の教えを、師父が法の中で全部説かれています。師父が既に、奥深い道理を平易に解説されているので、法理を悟り得るか否かは、私たちが身を入れて学法し、真に学法できるかどうかによって決まるのです。

 師父が「大法をよく学ぶには、いかなる目的も抱かずに学ぶことこそ正しいのです。『轉法輪』を一遍読み終えるたびに少しでも分かるようになったら、すでに高まっています。一遍読み終えるたびに、ただ一つの問題が分かっただけでも、それも真に向上しています。実は、修煉の中で、取りもなおさず少しずつ知らぬ間に修めて向上してきているのです。覚えておくべきことは、求めずともおのずから得る、ということです」[2]と仰いました。 

 長年、同修たちと付き合う中で、学法、交流、法を実証することに関わらず、言い争い、相手のことを見下すことから、互いに受け入れ、協調し合うまでの過程も、自分を修め、自分を規正する過程でもあります。数年前まで、私は専ら同修の短所を探していました。誰それが法に従うことができない、口を修めてない、誰それが中国共産党文化の影響が深刻だ、事をする心ばかりだ、等々の同修の至らないところばかり見ていました。このことは誰それのせいだと思うと、その同修に責任を取ってもらうまで気が済みませんでした。不平不満を抱えて、同修を非難していました。学法してから、自分の執着、人心を見つけると同時に、法をもって同修を評価して、同修の執着を一山ほど見つけ出し、同修に会うや否や相手を説教していた自分の行動は正しい行いだ、同修への思いやりだと勘違いしていました。実は、自分の行動はすでに師父の法の教えからかけ離れていたのでした。師父が、弟子の私達にトラブルが起きた時に、まず内に向けて探して自分を修めることを教えられていましたが、しかし私は外に向けて探していました。

 師父が「修煉は自分自身を修めることです。どうしても外を見ている人がいます。この人のここが法と一致していないとか、あの人のそこが法と一致していないという具合です。相手の間違いに気づいたら、善意をもって「このことはこのようにした方が良いのではないでしょうか。私たちは修煉者だからです」と相手に話せば、受け入れられると思います。しかし、いつもあなたのここがダメだと言うのも良くありません。相手の間違いを見たら、なぜ自分がこの問題を見たのか、自分自身に問題があるのではないかとまず自分を探すべきです」[3]

 問題に気付いたらまず自分を探すという師父の法に、一つずつ自分を照らし合わせました。すると、自分のたくさんの私心、例えば、嫉妬心、闘争心、歓喜心、顕示する心、怨恨の心、他人を軽蔑する心、事をする心、陰で他人のことを非難する心、お高く止まっている心などの多くの私心を見つけました。また、常に他人が自分に従うよう指図をしていました。中国共産党文化の毒素もたくさん持っていました。例えば、無神論説、自尊自大の心、言葉での争い、憎しみを晴らす心、冷淡な態度など、『党文化の解体』の本の中に言及された多くの毒素が、自分の思想の中に潜んでいました。私はこれらの人心と腐敗物を見つけ出し、正念を発して取り除くと同時に法を多く学び、良くない物質が現れたら、直ちに解体させることに励むことにしました。

 以前、自分に「私は精進できていないので、それほどの責任と使命も担っていないはずだ」という考えに占領されていたため、真相を講じることや、人を救い済度することに対し、それほど積極的ではありませんでした。知り合いに出会えば真相を伝え、知り合いが現れなければ、自ら見知らぬ人に真相を伝えることをしませんでした。師父の説法を学んだ後、自分の以前の認識が間違っていたことに気づきました。良く修めても、良く修めてなくても、人を救う事は私たちの責任であり、当然な任務(果たさなくてはならない努め)であり、必ず人を救わなければならないことを知り、見知らぬ人に真相を伝えることをはじめました。常に、道で私とすれ違った人や、町で出会った人に真相を伝えました。田舎では、大多数の人が自分は中国共産党や共青団に参加したことがないと自称していますが、それでも、その人たちに真相を知ってもらわなければいけないと思い、新たな真相を伝える方法を考えました。それは、真相を編集し、小冊子を作り、『縁のある人々へ』という真相資料と一緒にビニールの袋に詰めて、各家々に配りました。また、セキュリティの厳重な家には、ドアノブに真相資料をかけて配りました。

 修煉の道において、自分にまだ、まだたくさんの正さなければならない人心や、取り除かなければならない執着があります。しかし、私の心に師があり、法があります! 私はもっと、もっと良く修め、たくさんの人たちを救おうと決めました!! 師父に感謝を申し上げます!

 注:
 [1] 李洪志師父著作『轉法輪』
 [2] 李洪志師父著作:『精進要旨』「学法」
 [3] 李洪志師父著作:『2016年ミューヨーク法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/3/3/343794.html)
 
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