文/中国の大法弟子 真如
【明慧日本2017年4月26日】
病業の中にいる同修と交流する
近年、一部の同修は長期に病に妨害されて、命さえ失いました。艱苦の歳月を共に歩んできた同修に心を痛めています。私は修煉を始めたとき、近くにいた同修のAさんを思い出し、医学の面から大法を実証したいと思います。きょう、私はこの体験を書き出して、現在まだ病に妨害されている同修と分かち合い、師が法を正すことを手伝って衆生を救い済度する大きな流れに入るように希望します。
下記は修煉当初の出来事です。
同修のAさんはある大病院の外科主任です。ある日、同修のBさんは彼を訪ね、自分の静脈拡張がひどく、手術をしてほしいと頼みました。この外科主任はBさんの状況を聞いて、大法の上で交流し、「私達は修煉者です。師父はすでに私達の身体を浄化してくださいました。私達には病がないのです。体調が良くないのは業力が消去されており、良い事です。私達はこれを病と考えてはいけません。仮相に惑わされてはいけません」と説得しました。BさんはAさんの話が正しいと思って、手術をやめました。
2カ月後、Bさんは再びAさんを訪ね、病状が重くなったことを話し、足の血管が随時に炸裂するようで、手術を受けたいと言いました。Aさんが思うには、同修として、自分は言うべきことを言った。相手は自身を常人と見ており、医者としての自分は職責を履行するしかありませんでした。
Aさんは自ら手術を行い、皮膚を開いてメスで拡張した静脈を切除しようとしましたが、3回切っても、全然切れず、鉄線を切ったように感じ、大変驚きました。仕方なく、外科バサミで手術を完成しました。Aさんは長年の外科手術の中で初めてこのような状況に遇いました。術後、Aさんの心はとても辛く、「Bさんの身体はすでにこんなによくなっていたのに、私はこの一段の静脈を切除し、悪いことをしてしまった」と悔やんで、Bさんの覚悟があまりに悪いと愚痴をこぼしました。その後の長い間、この外科医はずっと罪の感覚を持っていました。
ある日、Aさんは悪性腫瘍患者の手術を行いました。術中、彼はこの悪性腫瘍が一層の厚い膜に包まれ、腫瘍の周りにがん細胞の浸潤が何もなく、きれいだと気づきました。このような状況はあまりに希少で、こんな大きな悪性腫瘍で、周りに浸潤していないのを不思議に思っていました。
翌日、病室を巡回するとき、Aさんは昨日のこの患者が法輪バッジをつけているのを見て、「あなたは法輪大法をやっているの?」と聞きました。相手は「そうです」と答えました。Aさんは心が痛み、「あなたは修煉者なのに、どうして手術を求めたの?」と心の中で愚痴をこぼし、「師父はこの同修の身体をこの程度にまでお変えになったのに、彼は覚悟ができず、大事にせず、師父の苦心を無駄した。たいへん残念だ!」と嘆息しました。1年後、この患者がAさんの前に現れたとき、完全に別人のようになり、悪性腫瘍はすでに拡散したと検査で分かりました。
私達は修煉のはじめに、師父はすでに私達の身体をきれいにしてくださいました。修煉の中で現れた病の状態は私達の次元の向上のために設けられた試練で、苦しみに耐えることで以前の負債を返しているのです。師父は私達の負債の大部分をお引き受けになりました。残りわずかなものは私達の次元の向上のためです。勿論、試練が大きいものもあるし、小さなものもあります。しかし、大小を問わず、みな良いことで、あなたが次元を向上する時が来たのです。
一部の同修は病業の関が長くて越えられず、表面上では薬を飲まず、病院にも行かないのですが、しかし心の中にはずっと病があると疑っています。ご存知のように、私達の一思一念は他の空間で一層一層の生命にははっきり見えています。師父の法身もご覧になっておられますが、基準に達しなければ仕方がありません。またある同修は真に修める状態にずっと入らず、トラブルに遇うと、自分を修めず、利益の前で常人と同じように争い、資料の作成、資料配り、三退の勧めを精進の基準とし、病業が現れると、大法を疑い、師父を疑い、関を越えられないと、消極的に耐える中で師父に愚痴をこぼし、自分が三つのことをみなやったのに、なぜこうなったのかと思っていました。
上述したこの二例は医学の面から師父が確かに私たちの身体をきれいにしてくださり、演化してくださったことを実証しました。身体に現れた病業は仮相で、試練です。実際、身体の魔難でも、生活の魔難にしても、みな良いことで、みな私達の向上のために設けられたのです。私達は師父を堅く信じ、大法を堅く信じ、無条件に内に向けて探せば、越えられない関門はありません。