修煉とは 他でもなく自分を修めることである
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文/河北省の大法弟子

 明慧日本2017年5月3日】ある夜、私達4人の同修は大法弟子のいない所に行き、法輪功の資料を配布することを約束しました。同修のAさんが集合地点に到着した時、私は、「1カ月に1回集団学法をしていますが、なぜ参加しないのですか」と聞きました。Aさんは「参加したくありません。学法が終わると交流もしないし、言いたいことも言えないから、参加しても向上できません、特にあなた…」と言いました。Aさんは私のここもダメ、あそこもダメだと非難しました。姑に対して情があり、病業中の同修に対しても情があるから、大法の仕事をいくら多くやったとしても無駄で、常人が人間のことをやったことに等しいと言いました。

 突如現れた試練に直面して、一瞬私は弁解しようとも思いましたが、しかし、辛く感じ、たぎっていた心が少しずつ穏やかになり、少しずつ考えはじめました。修煉者として、事柄だけを論じてはならず、誰が正しいか、誰が間違っているかを争ってはいけません。私は師父の説法の中の「今日、私は再びこの問題を指摘して、同時に皆さんの形成した物質を取り除きます。(拍手) しかし、形成した習慣を改めなければならず、必ずそうすべきです。くれぐれも気をつけてください。これから、人から言われたくない人は、つまり精進していない人です。人から指摘されたくない人は、その人が表しているのは修煉者の状態ではありません。少なくとも、この点に関してこのように言えます」[1]を思い出しました。

 私は資料の配布に行くかどうかを考えました。私はこれらの話に妨害されてはいけない、私はやはりやることをやるべきだと認識できました。私達はオートバイに乗り出発しました。夫婦の同修が前を走っていました。私は道を間違えているとわかっていましたが、もしかして小路を走っているかもしれないと思い、彼らの後ろについて走りました。夜中だったので暗くて道がよくみえず、またよく知らない道だったので、上り坂の時アクセルを踏みましたが、坂があまりに急で登れませんでした。しかし私は倒れませんでした。そもそも私は足が短く地面につかないので、普通なら倒れているはずでした。確認したら、師父の加持の下で、Aさんが黙々と協力してくれていました。Aさんは私が登れなくなったのをみて、両足で地面をしっかりと踏み、両手で私のオートバイが倒れないように支えてくれていました。

 私はいままで自分がよく修煉していると思っていました。三つのことをすべてやっており、常に褒め言葉ばかりを聞いていましたので、今までこのように私に言ってくれた人はいませんでした。12時過ぎに帰宅後、私はどうしても眠れません。Aさんの言葉を再び深く考え始めました。最近発生した数々の事件を思い出し、一つずつ自分のことをチェックし、師父の法を持って自分を量り、内に向けて探したところ、自分を他人より偉く考える心、自分の長所をもって同修の短所をみる心、リーダーであるとの心、自分を実証する心、嫉妬心、闘争心、名を求める心、面子の心、常に他人の短所をみる心などがあることに気づきました。自分が協調人だから、我が地区の学習者をしっかり保護する責任と義務があると思い、完全に自分をリーダとみなし、今日はこの同修のどこが間違っていると指摘し、明日はあの同修が法に基いていないと指摘し、その次の日にはもう1人の同修に利益の心があることがみえ、またある同修はどうして修煉状態が悪くなったのか、その同修と交流しなければならないなど、無意識のうちに自分を学習者の上に位置づけていました。時々刻々内に向けて探しましたが、それはただ表面だけに留まり、形式に過ぎず、同修にみせかけるだけで、自分を持ち上げ、着実に修煉することができていませんでした。今日になってやっと修煉は他でもなく自分を修めることであると認識できました。

 同修の直言は私に師父の説かれた「お互いの協力において、不満に思ったり、激昂して怒ったりしているとき、なかなか自分を考えたり、自分がどういう状態なのか、出発点がどういう人心なのかを考えることができません。その多くは自分の意見が採用されず、またはほかの人を見下しており、この二種類の心は最も強く現れています」[2]を思い出させました。いまになってやっと、自分に強烈な他人を見下さす心があり、自分の観念に符合しない人には接触したくない、自分の意見が採用されないと回避の手段を取る、その出発点は自我を守るためであることが見えました。

 絶えず学法するにつれて、私は修煉のなか現れた問題は私たちに向上する機会を与えていると認識できました。しかし、私はこの修煉の機縁をしっかり利用することができませんでした。私はさらに内に向けて探し、自分に法をもって、他人をひどい目に合わせる心があることに気づきました。例えば、集団学法の時、利益の心や、嫉妬心や、病気治療に関する内容になると学法を停止し、年配の同修と交流しました。まるで学法は同修のために行い、他人を変えるためで、自分を変えるためではないようでした。

 Aさんが私の話した言葉は、私に内に向けて探したくさんの人心を掘り出して、修煉とはほかでもなく自分を修めることであり、さらに師父の説法の「絶えず執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです」[3]の内涵を悟らせました。私は心からAさんの直言に感謝します!

 以上は個人の認識であり次元に限りがあります。法に則ってないところについて、同修の慈悲なるご指摘を願います。
 

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『ロサンゼルス市法会での説法』
 [2] 李洪志師父の経文:『二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/28/345695.html)
 
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