「時間」と「自己」に対する執着を取除く
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文/中国の大法弟子

明慧日本2017年5月22日】

 一、「時間」と「自己」に対する執着を取除く

 最近、一部の天目が開いている同修が「将来一部の同修が引き続き師父の正法を助けるために残される」と書いたので、同修の中で議論を引き起こしました。同修が自分の見たこと、知ったことを文章に書き出したのは正常なことだと思いますが、重要なのは我々がそれに執着せず、想像しないことです。

 将来残されるか帰位するか、どうなるか、師父が按排されるので、我々の思いではどうにもなりません。

 何故このような執着を引き起こしたのか、私から見るとまだ「私心」を取り除いておらず、自分の未来を重んじていたのだと思います。

 師父は、「これほど大きな法理はこの世で再現されるのではなく、天地開闢以来なかったことであり、宇宙の中でも天地開闢以来初めてのことです」[1]と説かれました。我々の修煉の目的は大法に責任を負い、衆生に責任を負い、高次元の生命になることではないでしょうか。私達は根本的に低次元で成り立った全ての私心と変異したものを放棄するしか、完全に大法に同化することはできず、衆生に責任を負う目的に達することはできないと思います。将来人間社会に残されるか否かは、個人的には師父が望まれること、そして宇宙及び衆生の需要によって決められると思います。常人のように妄想で自分が残されるかどうかを決めてはいけません。

 世間で修煉し、特に長年迫害を経験し、中国の大法弟子は異なる程度で迫害され、ひいては非常に酷く迫害された同修もいました。この状態の中で、迫害が早く終わることを希望する気持ちは理解できます。しかし、いかなる形式でも時間に対する執着は邪悪につけ込まれることになります。ひいてはいろんな苦難をもたらすかもしれません。某地区で同修はこのような手落ちがあれば、その地区で邪悪が迫害する言い訳になるかもしれません。深刻な教訓がたくさんありました!

 一方、人間社会でどんなに大きな苦難に遭っても、修煉者にとって大したことではありません。修煉者は将来永久不滅なところに帰るからです。(この内容を師父は『導航』の中で説かれたことがあります)。今世で大法を得ることができたことは最も幸運なことです。修煉者として個人的な感受を重視するのではなく、私達の責任及び使命を全力で尽くすべきです。

 二、「法を正す時期の大法弟子」の称号を大切にする

 一部の同修は今世で迫害により生活上不如意があり、常人の知り合いと親戚の前でいつもコンプレックスを感じています。ひいては一部の同修は自分の前世あるいはタイムトラベル小説から癒しを見つけたく、自分が輝いたことがあったことで、今世での不如意の心理のバランスを探したいのです。

 実は法理でわかりますが、人類の歴史の中で私達は確かに輝いたことがあり、天界で私達は異なる次元の佛・道・神になったこともあります。しかし私達は過去の長い人間輪廻の過程でどんなに輝やいていても、すでに過去のことで、ある時期の生命の過程にしか過ぎません。

 私達がやったことは「法を正す時期の大法弟子」の称号に相応しかったことで、最も素晴らしいことだと思います。現在目の前の全てをきちんとやることにより、我々の生命が将来の美しい新宇宙に入り込み、将来の宇宙の中で永久に変わりません。

 私達はやるべきことをやらず、過去にどんなにすごい経歴があっても、正法に認められず、淘汰されるかもしれません。

 師父は、「これほど大きな法理はこの世で再現されるのではなく、天地開闢以来なかったことであり、宇宙の中でも天地開闢以来初めてのことです(拍手)」[1]「今回のような機会はめったにありませんし、わたしもこれから先ずっとこのように教えていくことはありません。直接わたしの説法を聞き、功法伝授を受けられる人は、本当に……今のこの時間が最も喜ばしい時だったと、将来きっと分かることでしょう」[2]。以上2段の師父が講法された中で、私は、「師父が宇宙大法を洪伝してくださるお陰で、我々は最も幸運な生命になり、これは万古の機縁だ」と悟りました! 私達はどんな次元にいても、あるいはどんな生活を過ごしても、大切なことではなく、重んじる必要がありません。大切なのは我々自身が大法に正確な位置を与えることです。

 本当に「法を正す時期の大法弟子」の神聖と責任が若干でも分かるのであれば、人間社会で修煉し、世人の目線や議論に直面する時、コンプレックスがなくなるはずであり、慈悲と威厳で物事に対応できるはずです。

 修煉の角度から考えると、「法を正す時期の大法弟子」の神聖さと責任が分かれば、個人修煉や大法を実証する時、更なる精進、更なる努力で全ての物事に対応できます。どんな関や難があっても、乗り越えることは簡単になります。

 三、正法の角度から問題を見る

 修煉者として人間社会で修煉すると、いろんな関や難に遭うかもしれません。遭うたびに、単に忍耐したり、それを取り除くだけで、多くの場合は効果がよくありませんでした。正法の基点から問題を考えれば、たくさんの関や難を乗り越えることは簡単になりました。

 例えば、体調が悪い症状が出たら、自分はどこか不足があり、邪悪につけ込まれたではないかと思わなければなりません。まずは自分の不足を先に探すべきです。多くの場合我々自身に手落ちがあったのではなく、邪悪な迫害の要素も含まれています。自分の不足が分かれば、正念を発し、妨害を取除くだけではなく、法を正す角度から自分が遭った問題を考えなければなりません。

 我々が体の不調の表象を取り除くのは、自分自身の体調を良くさせるではなく、これを操縦した旧勢力の生命が我々を妨害したため正法に淘汰させないためであり、常人が我々を誤解して大法に誤解を抱えさせないためです。

 完全に正法と衆生を救う角度から、無私の基点から物事を考えれば、問題が一時的に酷くなったり、痛くなったりしても、私達が貫き通せば、全ての仮象が自然に解決でき、頑として妨害する邪悪な生命も簡単に取り除かれることになります。そもそもそれらは理屈に合っていませんでした。

 普段我々は問題に遭ったとき、正法及び救度の角度から問題を見れば、私達自身の小宇宙と周囲の環境にとって、非常に前向きな影響を与えるかもしれません。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『米国西部法会での説法』
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/4/5/345182.html)
 
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