安逸心を見極め、法の中で自らを正す
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文╱海外の大法弟子

 【明慧日本2017年5月24日】最近の修煉体得を、皆さんと分かち合いたいと思います。

 最近、修煉状態が良くありません。法を学んでも心に留まらず、発正念をしても気持ちが集中できず、煉功をする時にも居眠りをし、法輪功真相電話をかけても相手がなかなか出てこないし、効果もよくありません。 

 家の浴室のシャワーヘッドは時々水漏れしていました。自分には漏れがあることが分かり、強制的に内に向けて探しました。その結果、非常によくないもの、安逸心があるのを見つけました。

 一、法を学ぶ時の安逸心の現れ

 家で法を学ぶ時、終始背筋を伸ばして正しい姿勢を保つことができず、いつもリラックスした座り方をし、時には一方の足はもう一方の足の上に置いて座り、手は顎をついて法を読んだりしていました。このような師と法を敬わない振る舞いは安逸心の現れでした。法輪功の真相電話をかける時も、楽な座り方をして行い、それなのに肩と首がこって痛くて堪りません。そして、その痛みがなかなか取れませんでした。それは邪悪からの妨害だと分かっていますが、それは自分がしっかり行っていないため、旧勢力に隙きに乗じられたのではないでしょうか。

 この安逸心は一種の物質だと私は理解しています。すこしでも注意を怠れば、それは自分の空間場に侵入し、自分の体にのしかかり痛みを与えるのです。一方、私は安逸というものを惜しんでなかなか正念で一掃しようとせず、気持ちの良さを求めれば求めるほど、安逸という物質はますます強くなり、それを取り除かなれば痛みも取れず、悪循環となり修煉状態もずるずると落ちてしまいました。問題の重大性を認識してから法を学ぶ時、私はできるだけ両足を組んで正しい姿勢を保つようにしました。こうして、1講を読み終われば以前より集中力が高まり、そして、体も楽になりました。

 二、安逸心は煉功に影響を及ぼす

 煉功をする時、よく眠くなります。朝、起きた時、頭がスッキリしていても、煉功に出かけようとすれば、眠たくて仕方がありません。自分には問題があると分かっていますが、しかし、その深刻さには気づいていませんでした。もともと、朝3時半に起きて煉功しようと決めていましたが、最近なかなか起きられません。時には、朝5時に起きて座禅をすることもありますが、「じゃ、5時に起きて煉功すればいいのか」と、ついつい楽をしたくなりました。しかし、そうすれば、朝の学法の時間がなくなるので、さすがに時間の変更にためらいました。

 私はしっかり考えました。5時に起きるのは確かに1時間ほど睡眠を長く取れますが、しかし、睡眠を長くすれば元気になるという考えは、人間の考え方ではないでしょうか。師父は『轉法輪』の中で「常人はほかならぬこの身体を持っているからこそ、さまざまな問題を抱え込むようになったのです。寒くても暑くてもいけない、喉が渇いてもお腹が空いてもいけない、疲れてもいけません。そして生、老、病、死のこともあり、いずれにしても安らかになれません」と説かれていました。常人は確かに疲れても、お腹が空いても、眠たくなっても全部だめですが、しかし、神はこのような状態ではないはずです。それなら、常人の状態に合致して人間に留まっていていいのだろうかと思いました。

 修煉するとは人間の殻を突破することです。人間が安逸を求めるのは当然なことですが、修煉者としては苦しみに耐えなければなりません。功は気持ちよく伸びるものではありません。これらのことを理解して、私はいままで通り3時半に起きて煉功するように決め、必ずこの安逸という物質を全部取り除こうと決心しました。

 三、安逸心は執着を強め、人を救うことに影響を及ぼす

 安逸心が強くなると人を救う心も弱まり、空間場にはネバネバしたものが充満し、体がとても疲れを感じます。昼間は仕事に行かなければならないため、家に帰ってから休みたいとの人心が出てくると、安逸という物質と相互作用をします。一度、法輪功迫害の真相電話をかけている途中に、私はなんども寝ってしまいました。いつも疲れを感じているため、電話を掛ける時間も減ってしまいました。安逸心によって、私は真相を伝える原動力をなくしいい加減に日を送り、貴重な人を救う時間を無駄にしてしまいました。本当に恥ずかしく思いました。

 そして、安逸心は人に金儲けに執着させ、もっと金持ちになってもっと衣、食、住を豊かにし、もっと生活を贅沢にしようとさせるのです。しかし、私のすべては師父が与えてくださったもので、決してこれらのものに執着をしてはいけない、旧勢力の望み通りになってはいけないと思いました。私は真剣に自分の空間場を清らかにし、明るくし、確実に安逸という物質を取り除くようにと発正念をしました。

 慈悲なる師父は私達の帰位を期待しておられ、衆生は首を長くして法輪功迫害の真相を待っているのに、自分はこの安逸の泥沼に陥り三つのことをしっかり行わず、それを思うと、本当に悔やんで仕方ありません。この駄目な弟子は今から精進しても、師父はまだ私を待って下さるのでしょうか。

 数日前、たまたま当時同修達が天安門前で法を実証した時の映像を見ました。涙が止まらなくなりました。あの凄まじい恐怖の中で、中国と海外の大法弟子達はどうやって修煉の道を歩んできて、どれほど苦労を嘗めたのだろうかと思いました。しかし、海外のこのゆったりとした環境にどっぷりと浸かっている私は、本当に同修達が払った犠牲に対し、また師父のご恩に申し訳ないと思いました。精進しなければいけません。時間は人を待ってくれません。

 安逸心は私に内に向けて探すことすら難しく感じさせています。最近、何度も体得を書こうと思いましたが、しかし、安逸心に妨げられ、そして、よくない心が動いていても、それを掴んで、取り除こうとしませんでした。この文章を書く直前にも、「疲れたから、早く休んだらどう?」との声が聞こえてきました。少しでもうっかりすると、安逸心を自分だと勘違いしてしまいそうになりました。安逸心は自分ではありません。必ずそれを否定し、突破し、真の修煉者の基準に到達しなければなりません。

 以上は自らの少しの体得です。慈悲なるご指摘をください。

 師父に感謝します!

 同修に感謝します!

 合掌

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/19/348397.html )
 
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