安逸と壊滅に陥ることなく 終始精進する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年6月14日】時間が引き伸ばされるにつれて、大法を修煉する人々の中には、法を正す進展に追いついていける人、追いついていけない人、さぼっている人、緩めてしまった人、全体から落後してしまった人、逃げた人がいます。これも正常なことです。なぜなら、時間が経つに連れて結果が別れ、時間が人を成就させることもできれば、淘汰させることもできるからです。

 一部の人は圧力と暴力の下でも揺るぎなく大法を修煉してきたのに、惜しいことに環境が緩むと、前へ進めなくなり、道から離れて行きました。彼らは大法の修煉からますます遠ざかっていき、つまり天国の家からますます遠くなり、自分の誓約から、師父の導きから、神の位からますます遠ざかっています。神から見ると、このまま続ければ望みがありません。ですから、安逸の心が修煉者を台無しにすることを大法修煉者は必ず重視すべきです。

 世間での現れとして、一部の同修が北京へ行き大法を実証した時、窓の外で神佛が一緒に進んでいることを目にしましたが、現在はすでに孫の世話で忙しくなり、野菜を買って食事を作り、孫の面倒をみることが毎日の三つのことになってしまい、身体の調子は良くありません。かつて、いつも大法の書籍を手放さず学法していた人は、いまは散歩や花作り、旅行に夢中になっています。かつて、朝から晩まで煉功していた人は、現在学法しても煉功しても眠くなり、早寝遅起きになって、髪の毛は全て白髪になっています。かつて、毎日皆をつれて煉功していましたが、その後自ら学ばなくなり、煉らなくなり、目がそろそろ失明するところまで来た人もいます。

 宇宙の法を正す肝心な時、衆生が滅亡に瀕している非常な時期に、一部の弟子は精進しなかったため肉体を失い、師父と一緒に法を正し、一緒に天国の家に帰る機会を永遠に失いました。また修煉しなくなった人もおり、彼らの天国は法を正す中で更新されることが出来ません。これらの人は自分の行為に対して意気込み、常人の状態に符合すべきだ、そこまできつくしてはならない、佛は富があるのだなどと雄弁をふるいます。

 実質上、精進しないことは神、衆生と世界を台無しにする行為です。

 一、どうして緩めるか

 目標がはっきりせず、前へ進む原動力が小さいからです。師父は説かれました。「もし、皆さんがいまだに法を正す弟子とはどのようなものか、はっきり認識できないとすれば、今の魔難の中から抜け出せず、この世で安逸をむさぼる心に動かされ、邪な悟りに陥ってしまいます。それらの落ちてしまった人に対して、師父はずっと心を痛めています。多くはこの心に動かされて、だめになった人なのです」[1]  。1人の大法弟子が良く修煉できなければ、台無しにするのは一つの世界、およびその世界の中に住む衆生です。法を正す弟子とは何かをはっきりと認識し、何をやるべきかを認識することが出来れば、それをしっかり行うことが出来ます。ですから、絶対に自分が成就すれば自分の世界、および関連する衆生が全て救われ、自分がしっかり修煉出来なければ、すべてが台無しになることをはっきりと覚えなければなりません。

 半信半疑のままであればますます遠く離れて行きます。修煉の終わりはいつなのか、修煉して本当に成佛出来るのか、これらはすべて未知数です。なぜなら修煉の成績は触れることも、見ることも出来ないからです。一部の人は半信半疑で、信じなくなると修煉しなくなります。実際学ばなければ学ばないほど理解出来なくなり、法を正す進展にも追いつけなくなるので、さらにどうやって信じることが出来るのでしょうか。多くの同修は腹を決め、信じ続け、修煉し続け、20年間疑うことなく、振り返ることなく、放棄せず、自ら佛法の広々とした恩恵を感じました。どんなに追い出しても、彼らは大法から決して離れません! 彼らは心の底から信じているからです。修煉は信じることを始めとし、信じることを持ってチェックし、信じることが終点です。絶えず疑う観念を否定し、排斥し、取り除かないとなりません。なぜなら、疑い、信じない、修めたくないのも安逸の心が作用していることで、「半信半疑」を「固く信じる」ことに変えてからこそ、修め続けられます!

 厳粛な態度をとらず、自分に対する要求も厳しくしません。人は食べれば食べるほど食べたくなり、寝れば寝るほど怠けてしまい、心地よくなればなるほどなお心地よくなりたいと思います。師父は説かれました。「しかし、緩和されればされるほど、圧力は軽減しますが、それによって安逸心が生じやすくなり、少し心地よくなりたいとか、少しのんびりしたいとか、ゆっくりしたいとかなどの具合です。実は大法弟子の生活はすでに修煉と一環一環、緊密につながって溶け合っているため、自分を緩めてしまったことは、すなわち修煉を緩めたことになります。」[2]。修煉者は態度、言動においてすべて厳しく自分を要求しなければなりません。一旦緩めてしまうと常人と混同してしまい、長期に至ると修煉者ではなくなります。師父は「必ず自らに厳しく要求しなければならないのです! そうでなければ、わたしの弟子ではありません」[3]と説かれました。しっかりと覚えなければなりません。

 二、安逸と壊滅

 色欲は乗り越えがたい関であり、安逸により人は壊滅されます。唐の時代、弁機和尚は少年時代から高踏的(世俗を離れて気高く身を保っているさま)で、男振り(おとこまえの意)でした。15歳で出家し、玄奘法師の経文の翻訳を手助けしましたが、高い才能と博大な知識を持ち、翻訳経験も豊富でした。玄奘法師を手助けして『大唐西域記』(だいとうさいいきき)を撰し、かつて一時期名が知れ渡りました。記載によると、その後、弁機和尚は高陽王女からプレゼントされた皇室の御枕を隠匿(いんとく・こっそりかくすこと)したことが発覚し、唐の太宗は高陽王女と弁機和尚が不正な関係を持っていると疑い、大いに怒り出し、弁機和尚を死刑に処するよう宣下しました。弁機和尚は腰斬りされました。

 玄奘法師がかつて大きな希望を託した奥義の継承者は情と色により台無しになり、これは永遠の教訓となりました。色と言う文字は頭の上に刀があります。弁機和尚は皇室の御枕を隠匿したため、腰斬りされましたが、現在一部の人は今なお男女関係において絶えず罪を犯しています。何の罪に処すれば良いでしょうか。何を捨て、何をとるか、どの道を歩むかは自分でよく決めてください。

 修道者にとって、学識、能力と功徳はいずれも戒めを超えるほど重要ではありません。戒めを守ることは最も重要なことであり、戒めを破れば自分自身を台無しにしてしまいます。修煉者にも人間の一面があり、欲望もあります。もし欲望を抑制しなければ、欲望に操られてしまう可能性があり、鳥獣にも劣り、極悪非道なことをやりだすかもしれません。

 修煉者は常人の道徳の模範になるべきです。自分が正しくなければ、衆生を救い済度することが出来るでしょうか。色の戒めを犯したら、古代では極刑に処されたかもしれません。欲海のなか心が清い蓮のようになれるかいなかはすべての修煉者に対する究極の試練となります。師父は説かれました。「大法弟子よ、色欲は修煉者にとって最も乗り越えがたい関であると私は随分前に既に言いました。常人のこの情にひどく動かされています。これほどのことでさえ、自ら抜け出すことができません。当初旧勢力はこのような人が大陸の監獄に行ってはじめて改めることができるように按排しましたが、そうではありませんか? あれほど厳しい環境の下で改めるしかないでしょう。あまりに楽だからそうなったのではありませんか? 口実をもってこの心を取り除いていない人は皆自らを欺き、他人を欺いています。私はあなたのために特別な按排をしていません」[4]。

 自分を誇らしく思い、だらけると途中で台無しになります。私たちは皆『ウサギとカメ』の物語を読んだことがあります。ウサギとカメは同時にスタートしました。ウサギはカメがあまりにも遅いと嘲笑し、自分がひと眠りしても追いつくことが出来、楽に勝てると思いました。しかし、目が覚めた時、試合はすでに終わっていて、すべて取り返しがつかなくなりました。人はある程度成績を収めた時や、褒められた時など、緩んだ環境の下、誇り、放縦、だらけなどの魔性が倍増します。もしそれを抑制しなければ、引き続き膨張し、危険に直面します。

 ある同修は法を乱した講演を聞き入れ、もう自分が成佛したので、修める必要はなくなったと思いました。それから、学法せず、発正念真相を伝えることもしなくなりました。このような同修は『ウサギとカメ』のなかのウサギと似ているのではありませんか。

 師父は説かれました。「修煉はきわめて苦しく、非常に厳粛なことです。ちょっとでも油断すれば、堕ちてしまい、長い間の努力が一瞬にして台なしになるかも知れないのです。ですから心を必ず正しくもたなければなりません」[5]。 傲慢、射幸心(「幸運を得たい」と願う感情の事)、だらけ、気ままにするなどはすべて不正なもので、自分の心から魔が生じることをもたらし、脱線すると完全に台無しになるかもしれません。覚えておいてください。道を修めることの最大の敵は従来外からの鬼ではなく、永遠に自分の心からの魔です。

 緩めて、だらけるとますます道から離れてしまいます。ある同修は天安門で正々堂々と横断幕を開き、真相資料を作成する時も恐怖心が全くありませんでした。しかし、その後、専任の家政婦になってしまい緩めて精進しなくなり、その後は、健康食品、西洋医学の薬、漢方薬を飲み始め、今では薬の事ばかり考えています。畑仕事、病気治療、子供の面倒をみる、携帯電話で遊ぶ、テレビを見るなどの日常茶飯事は人の体力や精力を分散させ、人に信念と意志を失わせ、気づかないうちに引っ張られて神から人間になってしまいます。

 かつて人心が少なく、正念が強く、状態が良かった彼女は、現在学法が少なく、正念が弱く、病み疲れです。彼女はかつて夢の中で、殿試に名が題されているなか、自分の名前が前列にあることを見ました。それは彼女の果位かもしれません。惜しいことに、彼女の緩めた状態はすでに10年続いたことです。人間の一生で何回の十年があるのでしょうか。このような同修は私達の周りに少なくありません。私達は彼らを呼び覚まし、彼らと一緒に学法し、交流し、彼らと手を繋いで精進する責任があります。また一部の同修は天寿が尽きても修煉を大切にせず、ゲームに夢中になって、数年後、肝臓腹水で亡くなりました。またずっと商売に忙しく、癌になって亡くなった人、長い間イライラする性格を変えず、絶えず人を罵り、不治の病にかかり亡くなった人もいます。

 三、修煉を大切にすることと精進

 まず、得難い修煉の機縁を大切にしなければなりません。師父は何回も機縁は得難いという法理を説かれました。1人が修煉を始めることは自分の前世で数え切れないほどそういう願望を抱き、数え切れないほど敬奉し、数え切れないほどの試練を通過して、やっと今生に大法を得る機会を与えられたかもしれません。私達と一緒に世に降りてきたのは、法を守る神もあり、さらに邪な魔もあります。邪な魔は虎視眈々として私達の隙きに乗じ、一瞬にして私達を台無しにしようとします。ですから、常に機縁は得難いと思い、自分自身と残されている時間、そして修煉を大切にすべきです!

 次は、佛性と魔性を見分けることです。一部の同修は一日中大法の書籍を手にしていますが、終始佛性と魔性を分別できず、正念と人心の区別が付かず、やるべきこととやってはいけないことを知らず、修煉の法理がはっきりしません。その根本的な原因はやはり学法の問題です。師父は説かれました。「人間の佛性とは善であり、慈悲として現れ、何かをするときにまず人に配慮し、苦痛に耐えられることとして現れるものです。人の魔性とは悪であり、殺生、盗み、利己、邪念、悪事をそそのかすこと、デマの煽動、嫉妬、悪らつなこと、発狂、怠惰、乱倫等々として現れるのです」[6]。法理ははっきりと書かれています。同修が経文『佛性と魔性』を暗唱し、法理に照らして魔性を戒めることを希望します。

 また、確固たる意志で魔性を抑制することです。正と邪をわきまえ、魔性を取り除くことを続けます。果敢にそれに立ち向かい、徹底的にひとつも残さず、だらけたりしてはいけません。リラックスしよう、楽をしようという観念が少し現れた時、断固としてそれを取り除き、排斥し、否定し、不正な観念が現れたらすぐにそれを取り除くようにします。すると少しずつ安逸の心を取り除くことが出来るようになります。師父は説かれました。「何を求めるかはあなた自身が決めることですが、常人には、みな魔性と佛性があって、考えにずれが生じれば、魔性がただちに作用するのです」[7]。もし私達がそれを制御しなければ、魔性を認め、魔性の操りを受け入れることになり、精進する状態を緩めてしまい、それについてくるのは身体の調子が良くない、トラブルが多い、自信がなくなるなど正しくない状態です。

 また、自ら自分を律するべきです。念を動かす時に気をつけるべきです。常に自分に小さな目標や計画を立てましょう。例えば、1日必ず3時間心を静めて学法し、1時間煉功する、目標を実現出来なかったら、すぐに補う。ネットサーフィンをしたい場合、まず今日学法したか、煉功したか、と自分に問います。学法をせず、煉功もしなかったら休んではならず、寛(くつろ)いではいけません。また例えば、恨みの心が現れたら、関連する法理を多く学び、再び関連する文章を探して読みます。毎日恨みの心を取り除き続け、それが徹底的に取り除かれるまで続けます。良く出来なかった場合、それを正し、甘えて譲歩してはいけません。もしすべての関に厳しく対応し、毎日自分に厳しく要求し、精進する習慣を形成すれば、緩めなくなります。

 最後に主意識が法を学ぶことです。同修は皆、私は毎日学法しており、法を暗唱することも出来ますと言います。そうであるならば、自分に問うてみてください。煉功しても功が伸びない原因は何でしょうか。台無しになるのはなぜでしょうか。主意識が功を得る前提は何でしょうか。師父が教えてくださり、私達は学びましたが、私達が本当に理解出来、心に入り、掌握したことには等しくありません。法を学んでから、法理がはっきりしないことは実際、主意識がはっきりしないことです。もし主意識が非常にはっきりとすれば、主意識が師父の法理を覚え、理解出来、すると自ずと思想と行為を正すことが出来ます。法を学んでから書籍を閉じ、自分をテストしてみる、これも自分の主意識がはっきりするようにすることなのです。一部の人は何回も色の戒めを犯し、これも主意識がずっと法を得られず、彼らが終始人間だからであり、遅かれ早かれ墜ちてしまうのです。

 結び

 人間が成佛する道において、続けられる人はますます少なくなります。病業を乗り越えられず亡くなった人、情を大事に思ったため佛を修することをやめた人、お金を稼ぐため修煉が荒れ果てた人、安逸のためだらけた人、苦を舐めることを恐れて修めない人、圧力の下妥協した人、自分を誇りに思い、自分の心から魔が生じた人もいます。また大きな波が沙を洗うなか、淘汰されてしまいましたが、本人は全く自覚していない場合もあります。

 人は成就する前、いつも途中で諦めたり、自分の心から魔が生じたり、台無しになったり、また佛を誹謗し、法を中傷する魔の子孫になるかもしれず、また道徳を破壊する人間のクズになるかもしれません。

 師父は『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』の説法の中で、繰り返し「緩めてはならず」と説かれました。ここからも私達に対する師父の期待が見えます。それは初心を忘れず、終始精進することです!

 師父は「人間の修煉はとても難しいことですが、落ちるのはとてもたやすく、一つの関を乗り越えられなかったり、強すぎる常人の執着を放下できなければ、逆の方向へ行ってしまうかもしれません。歴史の教訓は数多くありますが、落ちてしまったときに後悔しても、もう遅いのです」[9]と説かれました。

 定時の鐘が鳴る時、皆が集団で煉功する時、衆生がこの世に溺れて目覚めない時、私達は何をしているのでしょうか。ただ心の動きから、一言一行まで厳しく要求し、法の基準に至ってこそ、道を正しく歩むことが出来、偏ったり脱線したりしなくなります。

 今まだ修煉する時間があり、補う機会もあり、悔い改める機会、精進する機会もあります。共にこの万古の機縁を大切にし、安逸の心、怠ける心を徹底的に取り除き、時々刻々大法の修煉を第一とし、冷静になり、精進しましょう! 師父の言葉「わたしは一人の学習者にも落ちていってほしくはありませんが、基準に達していない弟子も決して欲しくはないのです」[10]をしっかり覚えましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「法を正す時期の大法弟子」
 [2] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年大ニューヨーク国際法会での説法」
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「出家弟子としての原則」
 [4] 李洪志師父の著作:『各地での説法五』「二〇〇四年米国西部法会での説法」
 [5] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [6] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「佛性と魔性」
 [7] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「法定」
 [8] 李洪志師父の著作:『大法弟子は必ず法を勉強しなければならない』
 [9] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「大法を盗んではならない」
 [10] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「妨害を排除せよ」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/5/10/347404.html)
 
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