見守るべきは正法の成功であり、迫害の結末ではない
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文/清醒

 【明慧日本2017年6月17日】正法時期の大法弟子として、私たちが見守るべきは正法の成功であり、迫害の終わりではありません。

 皆さんは分かっていると思いますが、迫害の結末は二通りがあります。一つは、法を正す師に手伝う正法が成功し、救うべき衆生をすべて救ってから迫害を終らせられます。もう一つは、まだ多くの衆生が救われていないのに、正法の終わりの時間になったので、終らせざるを得ない終わりを迎えることです。

 迫害が終わる最終の時間が設けられていることは当然なことです。宇宙の歴史は創世主がずっと誹謗中傷と侮辱を受けながら耐えていく状況の中で「大法弟子」が向上し続けることを延々と待ち続けていくはずがありません。ですので、大法弟子たちが最終的に圓満成就できるかどうかにかかわらず、迫害は確かに一つの終わりの時間があります。つまり、最後になって、なるべきことになります。師父は確かに弟子たちのために時間を延ばして下さっていますが、ずっと延ばしていく訳にはいかないはずです。なぜなら、ずっと延ばしていけば意義がなくなってしまうからです。

 確かに、正法の終わりが2017年であることを海外のメディアで自発的に言い出した人がいました。もしかして、本当にこの年に、大法弟子が法を正す師に手伝うことの成功如何に係わらず、迫害を終わらせなければならないかもしれません。もちろん、そうではないかもしれません。そうであろうと、そうではなかろうと、私たちが考慮すべき事ではないと思います。

 そうなろうと、そうはならないにしろ、私たちが集中して見守るべきは、法を正す師に手伝うことの成功の如何であり、迫害の終わりではありません。

 私たちは師父についてこの世に来て、人間社会で輪廻転生し、まさに法を正す師に手伝って正法を成功させるためです。これが私たちの使命です。世に下る前から、私たちは迫害に遭う可能性があることを知っても、誰もが恐れませんでした。恐れていたならば、この世に下ってこなかったはずです。なぜ今になって迫害の終わりの時間に執着し始め、幾重の次元も経て世に下った根本的な使命ーー法を正す師に手伝い、正法を成功させることーーに無関心になってしまうでしょうか?

 もし私達全員が、法を正す師に手伝うことの成功を真に見守っていて、自分自身が迫害に遭うかどうか、どのような迫害に遭うかをまったく考えていなければ……そうであれば、私たちは自然に修煉のこと、向上のこと、真に大法の要求に符合することに精神を集中し、法を正す師に手伝うことを成功に導き、当然ながら正法の成功による迫害の終焉を見ることになります。

 反対に、本意ならずに関心を寄せたり、或いは執着を持って関心を寄せれば、私たち大法弟子の修煉がだいぶ遅れていることになり、真の基準に満たず、心性が真に高まってきていないことになります。そうであれば、私たちは法を正す師に手伝うことの失敗を招き、失敗という結果の中で迫害の終わりに直面するほかありません。

 大法弟子として、私たちが迎えるべきは法を正す師に手伝うことの成功によってもたらす迫害の終わりです。私たちが見守るべきなのは正法の成功であり、迫害がいつ終わるということではありません。私たちは法を正す師に手伝うことが成功するように心がけて努力し、時間を大切にすべきだと思います。

 
(中国語:https://www.minghui.org/mh/articles/2017/6/13/349567.html)
 
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