文╱匿名
【明慧日本2017年6月24日】最近、「色欲」を取り除くには、一思一念、そして一つの視線もとても大事であることを悟りました。街では、時にはやはり異性を一目見たいという気持ちが生じます。時にその気持ちを排除することができますが、時にはやはり一目見てしまいます。心の中では、それはすべて常人の要素であって、自分はすでに常人からだんだん離れ(もうすぐ修煉によって得道する)、人間の「色」、「欲」、「情」、それにこの汚い肉体も含め、すでに「私の心」(我が心)を迷わせることはできないと分かっています。
法の中から、人類は低能な方法で子孫を残していることが分かりました。
神にとって、「これらの要素はすべて汚いもので、糞である」と私は悟っています。師父がおっしゃった「低能」とは、「念を動じればすぐに汚染されてしまうことだ」と私は理解しています。なぜなら、これらのものは神に属さず、そのもの自身は三界の中の「糞」であるからです。
三界に存在する物質や現象は、「修煉者にとってすべて汚染物質と落とし穴」です。けっして人々が想像したような客観的な存在ではありません。「修煉者にとって、それらはすべて魔」であって、その背後にはすべて「魔」の要素が絡んでおり、それは「色魔」なのです。
自分を常人と思わない時には、これらのものは頭に存在すべきではないと分かります。それらのものの存在すら考えてはいけません。「それらの要素はすべて魔」であるため、少しでも思うとすぐに妨害されます。記憶も、その他の関連するすべてがこれに含まれます。
「もう一つの魔」はもっと分かりにくく、もっと幅広く作用しています。それは幾つかの簡単な物質に触媒作用(しょくばいさよう・自身は変化せずに特定の反応を促進させる作用を持つ物質の総称)と迷わせる作用を働かせます。それは「情」です。
これらの「情」には多くの側面が含まれています。例えば、昔からの友情、かつて抱いた愛情、思い合う関係、そして、仲良し、波長が合う、意気投合する、共通の考え方を持っている関係、さらに、色欲の作用の下に生じた情が漂い、膨らみ、蝕(むしばむ・すこしずつ侵しす、または、くいこんで悪くする)む環境、また、ある長所に対して好感を持つこと、付き合いの中で自分が受益した心から生まれた情および依存、さらに話が合うから、寂しさを紛らわすことができるなどなどがあります。
これらの「情」は、すべて「魔」です。師父は「すべての情は魔である」とおっしゃいました。
これらの「情」は異性の間では「色」と「欲」を強めるのです。はっきり言えば、それはすべて「麻薬」です。「全部合わせれば、複合的な麻薬」になります。それは欲望を膨らませ、満足させる「落とし穴」です。
「麻薬」の一つの効果は、欲望を強め、欲望を満足させることです。それによって神経と感官(かんかん・感覚器官)に喜びと幻覚をもたらし、人を堕落させ、死に至らしめるのです。
私の想像では、「欲望」というものは周りに美しい氷山や氷坂に囲まれた底なしの洞窟のようなものです。その美しい景色に誘い込まれた人は、足を踏み外すと、万丈の深い淵に落ちてしまいます。
「色」と「欲」はまだ警戒しやすいのですが、「情」については、常に注意を払い、心を動じないように、「情」が生じないようにしなければなりません。誰かが良い、誰かが悪いと思っても駄目です。この事をこうやりたい、あの事が好きだ、それも「情」です。「情」から跳び出すことができれば、「色」も「欲」もなくなります。好き嫌いの心、喜ぶ心、外部の誘惑によって自分を制御できない心がなければ、「色」と「欲」の根っこもなくなります。
自分は未来の神であることを自覚し、分かっていれば、これらの要素に誘惑されません! これらの要素の誘惑に従って物事を考えないようにしましょう! 「私」(し)から跳び出し、衆生を救うことだけを考えましょう! 利他的( みずからの利益を犠牲にして他の個体を助ける)な正念は、執着を打破することが出来るのです!
以上は、個人の浅見(せんけん)です。 合掌