文╱中国の大法弟子
【明慧日本2017年6月27日】法を正すことはすでに終盤になりました。ここでは「最後の邪悪」に対する個人的な理解について、話をさせていただきたいと思います。
1、法を正すことが終わらなければ、邪悪はずっと存在する、それは旧宇宙の相生相剋の理によって決まっていることで、新しい宇宙が始まらなければ、旧宇宙の理はずっと働き続けるでしょう。毎日、明慧ネットで、同修が迫害を受けている報道を見てとても心を痛めました。同時に、「迫害に加担している人たちはなんてバカなんだろう。大法がこんなにも素晴らしいことを人間であれば誰でも分かるし、その上、これだけ多くの悪報を受けた実例があるにもかかわらず、どうして目が覚めないのだろうか」と不思議に思いました。
今、その理解を改めました。それらの人達は邪悪にコントロールされているのです。一方、旧勢力自身は神であるため、彼らはとても簡単に人をコントロールすることができるのです。これらの旧勢力はこのような生命で、どんな結末が彼を待ち構えていても、彼らは迫害を続けるでしょう。ですから、私達は加害者に真相を伝え、彼らに目覚めてほしいと願うと同時に、一部の生命は自分達のやり方を最後まで放さないことを認識しておかなければなりません。それは彼らの宿命であり、逃れられない非運であるということです。『封神演義』の中にも、多くの邪神が描かれました。普通に考えれば、神は人間のように迷わないはずですが、しかし、彼らは悪事を最後まで徹底してやり抜きました。正があれば邪も必ずあるので、常人がどう考えようと関係がないのです。
2、法を正す師に手伝う過程では、我々はやるべきことをやらなければなりません。なぜなら、その過程では、善も悪もともに自らを存分に披露するプロセスと舞台が用意されているからです。私達は人心から、師父にすべての邪悪を一掃してくださることを期待してはいけません。『封神演義』の例を見ても分かります。当時キツネは妲己の体に乗っ取って、紂王を誘惑しました。その一部始終を見た終南山の雲中子(うんちゅうし・『封神演義』に登場する仙人)は朝歌(ちょうか・中国古代の衛の首都)に来て、紂王に剣を献上し、剣を高く掛ければ妖怪を殺すことができると助言しました。しかし、紂王はキツネの話を聞いて、剣を壊してしまいました。そこから、その後の長いストーリーがあったわけですが、もし、人の観念から考えれば、雲中子はあれだけの能力があって、あれだけの慈悲心も持っているから、自らキツネを殺してしまえば、その後、たくさんの死者を出さなくて済んだのではないかと思うかも知れません。しかし、それは定められた運命であることを雲中子には分かっており、彼はそのようにしてはいけないし、する勇気もありません。それは慈悲と関係がないことです。
3、邪悪はまだまだ存在しているのですが、しかし、その数は大幅に減少し、人を支配する力もだんだんと弱まって来ました。私達が三つのことをしっかり行えば行うほど、環境は緩やかになります。柳宗元(りゅう そうげん・唐の文学者)は広く伝えられた『黔之驢』(黔州・けんしゅうは、中国の貴州省こことで、驢・ろは、驢馬(ロバ)のこと)の中で、「トラはこれまでロバを見たことがないため、最初、ロバを見て、とても怖がっていました。しかし、その後、ロバは大したものではないと分かって、ロバを噛み殺し、その肉を食べてしまいました」と描きました。私達は正念をしっかり持っていれば、邪悪はあのロバのように、凄そうに見えていても、邪悪全体はすでにとても弱まっているのです。
4、私達はそれぞれ自分のことをしっかりと行うべきです。仕事の環境や心性の高さ、そして圧力に耐えられる力が異なるため、師父は具体的な状況に応じて、私達にそれぞれの道を按排してくださいました。邪悪は八方手を尽くしてそれを破壊し、妨害しようとしていますが、しかし、私達が全身全霊で師父が按排されたことを行えば、きっと、必ず様々な妨害を突破することが出来るのです。
学生時代に清の彭端淑という人の文章、「学を為す」を習いました。主な内容は以下のように要約します。
「世の中に難しい事と易しい事はあるでしょうか。実行すれば難しい事も易しくなり、実行しなければ、易しい事も難しくなります。
四川省の境に2人の和尚が住んでおり、1人は貧乏で、1人は裕福でした。貧乏な和尚は裕福な和尚に『南海に行きたいのですが、どう思いますか』と聞きました。裕福な和尚は『どうやって行くつもりですか?』と聞くと、貧乏な和尚は『水1本とご飯の鉢1個あれば十分です』と答えました。裕福な和尚は『ここ数年、私もずっと船を借りて長江を下って南海に行こうと思いましたが、未だに実現できていないので、あなたには無理でしょう』と言いました。翌年、貧乏な和尚は南海から帰って来ました。そして、裕福な和尚にそのことを教えました。裕福な和尚はとても恥ずかしくなりました。
四川省から南海まで何千キロあるでしょうか。裕福な和尚が出来なかったことを、貧乏な和尚はやり遂げてしまいました」
常人の中のことでさえこうなのだから、まして私達には師がおられ、法がありますので、正念を持って正しく行えば、やり遂げられないことがあるでしょうか!