【明慧日本2017年6月29日】人間は怒っているとき、いつも自分が怒っていると勘違いをしています。他人の行為に不満を感じるとか、またあることが自分を怒らせたと思います。しかし、修煉の直前に出会ったことを通して、私はこの認識を根本的に変えました。
それは私が地元を離れ、ある印刷事務所で仕事をしていたときのことです。週末、ちょうど夕食を食べる前、ある夫婦が書類を持って来て、至急入力して印刷して欲しいと依頼してきました。時間が遅く、他の事務所は営業を終了していました。私は事務所で寝泊まりしていたので、ドアがまだ開いていましたが、入力担当者はとっくに帰宅していました。「私は入力担当者ではないので、入力が遅いですが、それでも宜しいですか?」と確認すると、その夫婦は了承しました。しかし、その後、隣に立って、私の入力画面を見ながらずっと文句を言っていました。「文字の入力を間違えたよ。あ、また間違えた!」、「あなた、どうしてこんなに下手なの?!」、「店長からもらった給料に申し訳ないと思わないの?!」、「早く入力しなさい!」、「早く、こっちは急いでる!」など、あまりにもうるさかったので、私は「自分は入力担当者ではないし、サービスでやって上げているのに文句を言われるなんて」と内心不満に思いましたが、自分の気持ちを抑えながら「これは最終版ではないので、ミスがあれば、後でチェックして訂正します」と説明しましたが、全く聞いておらず、その女性客はずっとイライラしながら文句を言い続けました。
男性客は「水はあるか、手を洗いたい」と聞いてきたので、私は奥の部屋を指差して、「バケツにあります」と教えました。男性客は手を洗いに行きましたが、女性客はまたイライラしながら、絶え間なくいろいろ指摘し文句を言い、不満タラタラで催促をしました。私は耐えに耐え、怒りがどんどんたまる一方でした。ふと頭を上げてみると、なんとその男性客はバケツの中にそのまま手を入れ、バケツの中で洗ってから出てきました。その水は私がこれからご飯を炊くためにわざわざ汲んで来たものでした。ひしゃくを使ってと説明して、ひしゃくも目の前に置いていたのに、どうしてそんなにたくさんの貴重な水を無駄にしたのかと、怒りが爆発しそうになりましたが、必死に抑えながら入力を続けました。
その男性客は戻って来てから、女性客に加わり、私の隣で絶えず不満や愚痴を言ったり、急がせたりしたので、私はついに我慢の限界を超えてしまい、2人に原稿を返し、「これ以上はできません。他の人に頼んで下さい」と途中で仕事を投げ出してしまいました。他の店が閉めてしまい、私以外に頼めそうなところが見つからなかったか、本当に急いでいたのかもしれませんが、2人は激怒し、私を指差しながら大声で罵りましたので、私も大声でたまっていた不満を訴えました。お互いに不満や憤りを感じ、言い争いになりましたが、結局、お互いに相手に訴えたことは相手に伝わりませんでした。
突然、私はその男性客の変形した顔(本当に顔が曲がりっていました)を見て、思わずあっけにとられ、内心「人間がある出来事に対し、ここまで(顔が変形してしまうほど)怒ってしまうとは、なんと悲しいことか」と思いました。その瞬間、ある目に見えない手が胸のあたりに充満した一塊の物質を一気に体外に引っ張り出してくれました。その感覚ははっきりしていて、つい先ほど感じた怒りや不満が消えてしまい、全く残らず全部きれいになくなりました。あの炎のような怒りを消す中間の過程すらなかったのです。心の中はとても清らかで悠然としていて、目の前に気が狂ったかのように罵っている人に対し、全く怒る感覚がなくなり、言い返す言葉すら思いつきませんでした。その2人は私が黙ったのを見て、直ぐ怒りがおさまり、小さな声で愚痴を言いながら帰ってしまいました。
今そのことを思い出し、師父は「多くの人は意地のために生きており、悔しくて耐えられなくなると首を吊ってしまうことさえあります」[1]とおっしゃいました。正にその通りだと思います。このことを通じて、私は人間が怒るとき、実は一種の立ち込めた一塊の物質(範囲の大きさは異なる)が、その人を制御し、影響を与えたときの反応であり、もしその物質のコントロールの範囲内にいなければ、まったく怒りを感じることなく、とても心地よく感じます。怒りそのもの自体は外部のもので、私たちの生命の本質の一部ではありません。怒りは七情六欲の一部であり、七情六欲も私たちの生命の本質にある成分ではないのです。七情六欲は情をなす成分ではありませんか。しかし、「情」は高次元の神が三界内にいる人間のために造った「一つの神」なのです。私たち正法修煉者は情の束縛を超越し、慈悲心を修めるため、修煉の中で必ず本当の自分を見極めなければならないのです。
修煉を始めて数年後のある日、同修に意地を張ったときに、ふとこの出来事を思い出し直ぐ正念を発しました。心の中で「怒っているのは私ではない、私は怒ったりしない」と一生懸命怒る気持ちを排除しました。前回と同じく一瞬のうちに、もともとあった怒りの気持ちが消えてしまいました! 葛藤の中間過程もなく消えてしまいました! 心の中はすぐに悠々自適で心地良いと感じました!
私たち修煉者は怒ったりしてはならず、情に翻弄されてはならないと思います。師父は「法輪は宇宙のマクロからミクロに至る一切の物質の法性の体現であって、独立した生命体でもありません」[2]と説かれました。人間の体と考えも宇宙の中の多くの物質から構成されています。私たち修煉者が法を実証するため、お互いに自分の考えを主張し、お互いに譲らず、甚だしきに至っては怒ったり、言い争ったりして、さまざまな常人のような心理状態や、意地を張ったり、振る舞いが爆発したとき、それはその生命のマクロの世界からミクロの世界まで、全ての魔性の物質の現れではありませんか! それは正に法輪の特性と真逆なのです! このような状態にある大法弟子に対し、私は大法を破壊する魔と旧勢力の最終のその生命の特徴を連想してしまいます。このような状態にある大法弟子は、まるで彼らの仲間に加わったように思えます。
注:
[1] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』
[2] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「正性」