心の底から 真に修煉する
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年7月25日】先日、胃腸炎のような症状を起こしました。高熱に加え、嘔吐や下痢も止まらず、食欲も全くなく、それどころか、食べ物のことを考えるだけで気持ち悪くなり、酷い時は吐いたりもしました。1日に20回以上もトイレに駆け込み、3日間で3キロも痩せました。特に、普段大好きなマンゴーを見ると、胃の中がひっくり返ったように、心の底からもう食べたくないと思いました。

 その日、法を勉強している時、「ある日あるいは今日、わたしの講義が終わるとすぐ、肉を食べられなくなり、匂いも生臭く感じ、食べたら吐きたくなる、という状態に入る人がいるかも知れません。人為的に抑えて食べさせなかったり、自分で抑制して食べないのではなく、心の底から現われてくるのです。この次元に到達すれば、功のおかげで自然に食べられなくなり、無理に呑み込もうとすれば、本当に吐き出してしまうことすらあります」[1]や、「食べられないとは、本当に心の底から食べられなくなることです。目的は何でしょうか? 寺院の中で修煉し強制的に食べさせないのも、われわれの場合のように自然に食べられなくなるのも、いずれも肉に対する欲望と執着心を捨てさせるためです」[2]の説法が目に飛び込んできました。

 中の「心の底から」という語句が一段と印象深く、一文字一文字が心に刻まれ、まるで私に見せているかのように、他の文字よりも濃く、大きく感じました。普段の学法の時、この語句を特に気にしていませんでしたが、まさにその通りなのです。心の底から食べたくないと思う時、それは人為的に抑制するものでもなければ、無理に我慢するものでもありません。それは自らの本望であり、自然に食欲がわかないのです。

 「心の底から」という語句は外界の強制でも、無理強いでもなく、内心の奥深い所からの自発的なもので、自らの本望なのです。つまり、生徒が心の底から勉強したいと思わない限り、努力しようとする原動力も、苦を嘗めようとする意志も、時間を大切にする気持ちも決して湧くことはないのです。先生がどれほど説いても、両親が口が酸っぱくなるまで言って教育しても、馬の耳に念仏でしかなく、結局、何の意味もありません。子供が心の底から両親に感謝し、誠心誠意に目上の方を敬愛してこそ、親孝行ができ、喜んでお年寄りの世話をすることができるのです。逆に、子供が心の底から両親を嫌っているのなら、例え毎日顔を合わせていても、何の安らぎも感じることなく、その口から出た言葉にはなんの気持ちも入っておらず、お年寄りや両親は喜ばれないでしょう。

 師父が私にこの言葉を見せられたのは、一体何を私に悟らせたいのでしょうか。きっと心の底から修煉するということに違いありません。常人が心の底から修煉したいと思う時、その人は一体どう変わるでしょうか。玄奘法師が経を求めて西に向かったのは、心の底から衆生の為に法を求めたいと思ったからこそ、「空に一羽の鳥もなく、地上に生き物の痕跡すらなく、見渡す限り人馬の姿などどこにもない」砂漠で、何の恐れもなく西へと進んで行けるのです。鑑真(がんじん)が東に渡ってきたのは、佛法を広めるという宿願を一度たりとも諦めたことが無いからこそ、例え失明しても、弟子が亡くなっても、6回目の航海を決心できたのです。法門寺の良郷法師(りょうきょうほうし・1967年7月紅衛兵が仏塔を破壊することを阻止するため、抗議の焼身自殺を行う)は、心の底から法を守りたいからこそ、死を恐れず、自らの命で地下の佛様の舎利を守ることができました。常人が心の底から修煉したいと思う時、その願いは天地をも感動させ、圓満成就することもできるのです。

 修煉者が、心の底から修煉しようと思う時、自然に師を尊敬し、佛法を敬うのです。修煉したいからこそ、苦を嘗めることを楽とし、最後まで全力を尽くすのです。心の底から修煉したいという念は、修煉者にとって極めて重要な一念であり、佛性でもあるので、十方世界を轟(とどろ)かせることができ、覚者のご加護を得ることができるのです。この一念を守るということは佛性と正念を保つことであり、いかなる魔の誘惑や幻覚にも勝ち抜くことができ、また、いかなる困難や試練をも乗り越えることができます。さらに修煉者の意志を固めることもできるのです。目標から目をそらさず、じっと見つめれば残るのは自らの足で前へと進んでいくだけなのです。つまり、修煉者は佛性と正念を保つことができれば、後は法が導く通りにやり抜くだけなのです。

 本当に自分を修めたいと思っているのなら、法を勉強する時は佛法が見えるのです。なぜなら、佛法は真の修煉者にしか見えないからです。発正念の時、法を正すことを妨害する邪悪を除去すると心を固めれば、神通力は思い通りに発揮してくれます。心の中に衆生のことがあれば、真相を伝える時、相手の心に伝わり、衆生も感動し、救われるのです。転んで失敗した時、その原因を振り返り真剣に反省してこそ、改めることができるのです。もし、その人に誠心誠意が無ければ、その口から出た言葉には何の力もなく、その言動も軽く感じるだけなのです。大法弟子は皆心から法を師とし、実修して精進するという初心を持っています。これこそ正念なのです。心から修煉したいというこの念を保てなければ、執着や欲望に惑わされ、人と神の間で彷徨(さまよ)うことになり、精進したりしなかったりなど、あるいは修煉の道から遠ざかっていくことも有り得るのです。

 修煉の道をまっすぐ歩くことができなければ、今やっていることの効果もうまく発揮できないのです。そういった時は、法を師とする初心を忘れ、正念を無くし、佛性を捨て、残るのは人心だけなのです。このような時、私たちは何を考えているのでしょう。仕事を完成させることでしょうか。1人で残されたくないから、無理してでも多くのことをやる事でしょうか。人心を抱きながら大法の項目に取り組んだとしても、多くの苦を嘗めることはできないし、威力も大きくなく、衆生を救うこともできません。例えば、師父が法を勉強せよと言われたからその人は漸く本を広げ、師父が何も言われなければ、その人はきっと自ら勉強しようとは思わないでしょう。任務を終えるために資料を配っているようでは、その人は衆生のことを何も考えていないし、効果も出ません。

 心の底から法を師とし、勇猛精進する念こそ正念なのです。修煉者は誠心誠意に、真心を込めて修煉しようとする念を保つことができれば、最後までまっすぐ歩んで行けるのです。本心から修煉したい人こそ圓満成就できるのです。

 今日から修煉の初心を取り戻し、佛性と正念を保ち、勇猛精進していきましょう。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/11/350851.html)
 
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