旧勢力に対する部分否定と全面否定(二)
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法理の昇華と同化

 文/同化

 【明慧日本2017年8月6日】(前文に続く)

 大法は私たちに旧勢力を徹底的に否定するよう要求しており、多くの同修もこのことを口にしていますが、心の中ではどのようになっているのかを知らないのです。多くの同修が長期にわたって学法していても新しい悟りがなく、いつまでも感性による認識にとどまっているのです。法理の上でわけがわからなくなり、迫害を否定しながら納得したので、旧勢力が迫害するしっぽとなったのです。

 前文では病業の角度から、迫害に襲われた時の第一念が非常に重要である、と話しましたが、表面だけやり遂げるだけではだめで、心の中の大法に対する理性の認識と同化はさらに重要です。本文ではこのことについて皆さんと交流したいと思いますが、悟性に限りがありますので、不適切なところがあればどうか訂正をお願いいたします。

 1. 法を学んでも法を知らず、悟らず、同化せずでは、迫害を認めたに等しい

 「すべての長時間にわたる迫害は、同修が法を知らず、法に同化しなかったために旧勢力にしっぽをつかまれたために引き起こされたものだ」と私は理解しています。しかし、ある同修は本当に「同化」が何であるかを知らないのです。

 師父は「事事対照し 倒すところ至るはこれ修なり」[1]と説かれました。

 「大法の要求に従って自然に行い、一言一行一念がみな真・善・忍に符合すれば、大法の中で向上し、自分の思想がその次元に符合し、同化したことを説明している」と筆者は理解しています。大法の要求に従って努力して行えば、基準はだんだん高くなり、絶え間なく法に同化していきます。

 たとえば師父は何度も同修に注意して安全な法を説かれましたが、安全な法に従わずに行う人がおり、その人は自分の観念に従って行動しており、さらに「何も恐れない」と自分を過大評価した結果、迫害されたのです。このような例はほとんどどの地区で見られます。そしてこれは、修煉していても大法に同化していない典型的な例で、旧勢力に迫害の言い訳をつかまれてしまうのです。

 2. 出世間法と病業

 1999年以前、多くの同修が「出世間法修煉」[2]に対して全く理解しておらず、今でも、多くの同修がこのことについて困惑しており、このような同修がいつも病業に苦しめられているのです。

 師父の説法の中で弟子が「世間法から出た後の体に病業が現れてくることはあるのでしょうか?」と質問しました。

 師父は「ありません。しかし、今日の修煉者の体の内部がかなり乱れており、それを調整しています。如何なる正法の修煉方法でも、三界から出た後、体に再び病業が現れるという状態はもうなく、絶対ないのです。しかし、その人はまだ自分の果位に到達していないため、常人社会で人と人とのトラブル、心性の軋轢がまだあります。圓満成就するまで続くのです」[3]と回答されました。

 多くの同修が字面の理解に執着し「20年以上も修煉しているのにまだ病業があるのは、きっとまだ出世間法を修めていないからだ」と考え、インターネットであんなにも多くの同修が体験の中であんなにも高く修煉しているのを見て、自分には本当に見込みがないと感じ、落胆して怠けてしまい、精進できなくなってしまうのです。

 また、ある弟子が師父に「師父はかつて、1999年「7.20」以前の弟子をしかるべき位置に押し上げたとおっしゃいました。・・・」と質問しました。

 師父は「実は、私は全ての学習者をしかるべき位置に押し上げました。これは本当です。当時みんな感じていました。それが見えた人もいます」[4]と説かれました。

 ある古い学習者はさらに「私の心性を高めてくださったのに、私はまだ出世間法を修煉していないのか?」と理解しなくなりました。根基が悪く、自暴自棄になったのです。

 さらに、ある同修はさらに極端になり、多くの古い同修がたまたま病業に陥ったのを見て「これはみな、出世間法を修煉しておらず、師父がおっしゃった、高い果位に高める、ということと矛盾する」と考え、法に対して疑い始め、師父に対して半信半疑になりました。

 このような学習者に対して病業はさらに多くなり、なぜならこのような学習者は病業の法理においてはっきりと学んでいないので、旧勢力は病業を用いて修めさせようとするからです。はっきりと学んでいないところがあれば、そこから修めなおさせるのです。病業の迫害が追加され、さらに悟らなくなり、悪循環に陥るのです。

 実際、大法は円融しています。学習者にいかなる理解の上で矛盾があったとしても、それはすべて自らの妨害であり、法をしっかりと理解していないのです。

 師父は「病にかかって、大法を修めて治った人がいます。本当に治ったのですが、旧勢力はあなたの心を取り除き、あなたができるかどうかを試したいとき、以前の病気のところがまた痛くなるようにし、または病状が現れ、症状まで同じで、あなたが大法を信じるかどうかを見ています。このとき、どうしたらいいのでしょうか? 人間なのか、神なのか、一念の違いです。正念が生じ、このすべてが虚像で、旧勢力の妨害であり、長年大法を修煉しているので、この状況は起きるはずがないと思い、本当に心からの一念が生じれば、すべてが消えてしまいます。しかし、これは人間が言えばできることではありません。確固たる正念はあなたの内心から来るもので、形式的なものではなく、口で言うものでもありません」[5]と説かれました。

 多くの同修が消してきた病業は、旧勢力が病業の虚像を用いて試練したものであることを、私たちは見てきましたが、しかし、本当にその試練にはまり込んでしまった同修もいれば、自分の病業として消業した同修もいました。前篇の文章の中において、もし同修のAさんが正しく悟らなければ、旧勢力が強化した病業を受けたはずでした。

 さらに、別の状況もあり、同修は肉身が体の全部だと誤解しています。

 師父は「一つ一つの細胞や五臓六腑がみなあなたの姿かたちをした信息の他の空間における存在形式であるので、きわめて複雑です」[2]と説かれました。また、師父は「三界内の体はみな、人身と呼ばれています」[3]と説かれました。

 「すべての次元の細胞が一つの体であり、この空間では体の一つの細胞、あるいは、一つの粒子として表現されている」と、私は理解しています。三界内の多くの空間の体は出世間法を修煉しているかもしれず、肉身の多くの細胞に対応してしっかりと修煉しており、そのような体に病業はありませんが、しっかりと修めていない細胞には病業があり、将来、修め遂げたすべての体が一体となり、三界の外の高次元空間も含め、それはもともと世間法を越えた体なのです。

 病業に関する法を理解し、修煉の次元に二度と執着せず、大法の修煉を始めた初期のように精進すれば、旧勢力は迫害のしっぽを失いますので、旧勢力の迫害を否定することはさらに容易になります。

 3. 法を正す修煉と病業

 師父は「新しい学習者以外、師父は99年7月20日以降、いかなる個人修煉の関も皆さんに与えたことがありません。なぜならば、皆さんの個人修煉は全面的に衆生を救い済度し、大法を実証することに切り替えられたからです」[6]と説かれました。

 この法は字面から理解することができ「『7.20』以後の古い学習者における『個人修煉における心性の難関』と『病業の難関』はみな、旧勢力の妨害が作り出したもの」であり、なぜなら古い学習者はすでに師父が心性を高めたからで、個人修煉の関はすでに乗り越えているべきであり、あとは、大法弟子の心性と法理の認識が低いために、旧勢力が加えた想定以上の妨害であり、師父はそれを逆手にとって弟子を引き続き向上させるのです。

 「多くの古い学習者の現在の病業は、十数年前、二十数年前に徹底的に乗り越えているべきものであり、師を信じ法を信じることが完全でなく、病に対する観念が根絶されておらず、病業を認め、心配して疑い、栄養で健康を保持し、食事療法で体に栄養をつけ、保養して休み、外に求めて依存し、値引き交渉をし、恨み、覆い隠し、逃げ道を残し・・・」ということを、私たちは見ることができます。いろいろな観念や雑念が存在しているので、神の念の純粋さに到達できず、ずっと現在まで時間稼ぎをしたため、旧勢力が絶えず病業の迫害を追加したのです。私は「師父はそれを逆手に取りますが、それは弟子を苦しませるためではなく、弟子が徹底的に否定し迅速に乗り越えることこそ、師父が求められているものだ」と理解しています。

 明慧ネットには、同修が病業の関を乗り越えた多くの例が載っており、すべて、旧勢力の病業による迫害を徹底的に否定し、内に向けて探す心を保持し、病業が表すいかなる虚像も認めず、病業の虚像が体にもたらす状態をあまり気にせず、すぐに奇跡を起こして関を乗り越えました。奇跡そのものが法を実証し、人を救うことになりますが、それらの同修の中のだれが病業に陥った時に病業を研究し、観念を作り出したでしょうか?

 4. 長きにわたって法を勉強したにもかかわらず、観念を固守し、法に同化せず、自我を押し通す

 『法を適用した反迫害の試み(下)』の1文の中でいくつかの例を挙げて対比しており、中国共産党に同時につかまったある同修の第一念は「大丈夫だ、だれも私を動かせない」であり、思いっきり堂々と相手に真相を伝えた結果、礼儀正しく家に送り返されました。しかし、ある同修の第一念は「もうだめだ!」であり、結果、本当にダメになり、その後、洗脳班(思想改造施設)に不当に連行されて本心に逆らい保証書を書いてしまいました。また、ある同修の第一念は「私をどうするつもりだ? どんなに私を拘禁してもせいぜい15日ではないか?」と、まったく恐れなかったところ、不当に15日間拘禁されてから釈放され自由の身になりました。

 この例を読んだ同修は、師父が『轉法輪』の中でおばあさんが車にぶつけられた時に説いた「物事の善し悪しは人間の一念によるものであり、その一念の違いによって異なる結果がもたらされることがある」[2]を思い出すことができるでしょう。どんなに長く学法していても、この修煉を指導する内涵を悟っていなかったのです。

 なぜ悟れなかったのでしょうか? 長く学法していても、形式に走り、どんなに学んでも心が法の上になく、ある同修は佛教のお経のように長年学法し、長期にわたって主意識に新しい理解がなかったからです。普段から内に向けて探さず、学法しても法に照らさず、自分がいる次元の理解に固執し、別の同修が執着心を追い払うよう指摘しても、学法の中で執着心を取り除けず、旧勢力の迫害のしっぽを留めてしまうのです。

 (未完、つづく)

 注:
 [1]  李洪志師父の詩: 『洪吟』「着実に修める」
 [2]  李洪志師父の著作: 『轉法輪』
 [3]  李洪志師父の著作: 『長春補導員法会での説法』
 [4]  李洪志師父の経文: 『二〇一六年ニューヨーク法会での説法』
 [5]  李洪志師父の著作: 『各地での説法十一』「二〇一〇年ニューヨーク法会での説法」
 [6]  李洪志師父の著作: 『二〇〇三年元宵節での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/18/351202.html)
 
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