色欲を放下し 人を抜け出す(一)
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年9月6日】中国は昔から礼節を重んじる国で古代の先哲達は人の道徳の修養を大変重視しました。男女関係への要求は特に厳しく、良くない念が動じただけで、大きな過ちと見なされました。これは人を制約しただけでなく、更に人を保護するものでもありました。

 このような保護があってこそ、人類の道徳を一定のレベルに維持し、不倫で人が自分自身を滅ぼすことを避けることができました。人間は自分自身を律する力が弱いので、早期に男女に対する制約を崩壊させたら、五千年経てば人はきっと不倫で身を滅ぼしてしまい、今日まで生きられなかったかもしれません。これは神の按排で、人々を大法が伝えられるまで待たせたのです。

 現在の社会は誘惑が多く、各種のマイナス要素が現れてきました。特に不倫の問題が多く見られます。色魔は頻繁に人々を邪魔します。修煉者は、この乱世の中で修煉しており、巨大な誘惑に直面しています。ある修煉者はこの腐敗の波に溺れて堕落し、名利や色欲に陥り、自分の回帰の路を塞ぎ、自分に希望を託した無量の衆生を滅ぼしました。修煉者が自分の一思一念を律し、歴史の最も汚された今の時期を穏やかに乗り越えられれば、美しい未来へ向かっていきます。

 この十数年間、ある同修は色欲の心を除去できないため、常人に堕ちました。ある同修は色欲の心が残っているため邪悪に迫害され、拘禁され、拷問されました。更にある同修は色魔に引きずられ、大切な人身まで失いました。

 現在多くの同修が認識したように、色と欲は皆一種の魔です。魔の妨害に面して、自分自身を放縦させてはいけません。修煉者として、色欲に対して明確な認識を持たなければなりません。色欲は三界の中のために作られたもので、修煉者が元の次元に戻ろうとすれば、これらのものを放下しなければなりません。でなければ昇華できるわけがありません。

 この十数年の修煉を経て、色欲のなかに隠された生命と要素が見え、それらの些細な表れも見ました。自分が見て悟ったことを文章に書いて、同修に重視してほしいと思います。足りないところがあれば、慈悲なるご指摘をお願いします。

 人生は幼児から徐々に老いる過程の中で、人間は目、耳、口、鼻、体と頭で世界に接触したり、認識したり、考えたりして生活を楽しむと同時に、多くの執着と観念が生じました。これらの欲望、執着、観念が強くなった時、逆に人の器官を占有しコントロールします。つまりこの肉体をコントロールするのです。その時の行動を自分だと見なすなら、先天の本性が効かなくなり、後天的な観念と欲望に作用され、常人社会に迷い、堕落と滅亡に向かうのです。

 私達の生命は、高い次元から、徐々に下へ落ち、この三界に入りました。六道輪廻の中で、天人、人、動物、植物、鬼などに転生するかもしれません。我々は転生するごとに、自我の観念を形成します。男性に転生したら、男性の特質を自分だと見なし、女性の美貌、優しさ、体に魅かれます。女性に転生したら、自分を助けて困難を乗り越える男性に頼りたく、男性への関心と愛に憧れます。

 特にこの末法の世にあって、人と人との因縁関係も極めて複雑で、男女間の誘惑もこの時代の腐敗により、隠すことなく、手放しに見せびらかしています。修煉者は常人社会で修煉しているので、いつどこで誰に会うかもしれませんが、それはあなたの修煉の劫になるかもしれません。

 三界の六道輪廻から見ると、人が転生する前、神様はすでにある地方のある家にその人のために位置を段取りされるのです。そこに転生したら、自分の親戚がいます。成長すれば、同級生や友人や自分と縁のある人々も出てきます。その後、自分の家庭をもち、新しい生命の誕生を期待します。私達の人生は、因縁関係で、善縁であろうと悪縁であろうと、縁があるから会えるのです。縁がなければ、出会うことはありません。縁の中で、私達は縁を結び、願いをかなえ、罪業を償い、知らないうちに新たな業を造り、堕落していきます。

 幸いなことに、私達は大法弟子になり、法を得て生命の真諦がわかったため、生命の底から喜びが湧き出て、「この世の中に、自分を阻むものはない、私たちは勇猛精進して家へ戻ろう」と、目覚めるのです。

 しかし、私達のいるのは極めて堕落した末世です。様々な要素がここに集まり、異なる段階で私達の修煉を妨害してきます。これらの邪魔の中で最も酷いのは、色欲の邪魔です。多くの修煉者が妨害されました。

 人類社会の中で、人は夫婦生活の欲望が本能だという認識がありますが、実は夫婦間の欲望の存在は、人に強いて加えたものです。それは人としての生存状態を維持するための存在です。これは三界内の生命によって操られるものです。生理反応は、自分自身の主元神によりコントロールされないことに気づいた人がいます。

 師父は、「高い次元から見れば、常人は社会の中で、まるで泥んこ遊びをしているようなもので、汚さも知らずに地面で泥まみれに遊んでいるのです」[1]と説かれました。高い次元の神はこのように感じますが、人間は、このことが享受されたものだとは思いません。

 もし、あなたが立体的にこの世界が見えるなら、陰で人を左右し、操る多くの要素が見えます。人はあわれで、常人の理は逆になっています。各種の文学作品の中で、性欲と情欲が描かれていますが、実に人を害し、人の道徳を堕落させています。

 色欲は、実は生まれ変わる輪廻の中で、旧勢力が系統的に按排し、強いて人につけ加えたものです。そのものの起源は高いわけでも、深いわけでもありません。三界のものにしか過ぎません。しかし、そのものは人の肉体を直接操っていますが、人はこの肉体の感じを受けています。色欲は、意志が弱い修煉者に対しては極めて大きな影響力があります。

 宇宙の最も低い次元で生活している私達は、大法の修煉へ足を踏み出し、三界の様々な要素に阻まれ、一見すれば、常人と大きく区別できませんが、実は法を得てから、常人との次元は随分離れていきます。私たちは絶えず生命の境地を高め、三界を突破し、自在と解脱に向かって行くので、色欲は必ず放下しなければなりません。

 三界の中で、男女のことを専任する生命があります。人の色心が出たとたん、求めていると見られ、色欲と関係のある生命と要素が皆出てきて、人の欲望を強めさせます。この際にその人がそれを自分だと認めれば、人は色魔に取り付かれます。それらのものは次元の高いところから低いところまで、一層一層人をコントロールします。下へいけばいくほど悪くなります。修煉者の立場から見れば、それらのものは色魔に属すると分かります。

 人体の中には、神から与えられた多くの物質もあれば、六道輪廻の中で形成した各種の観念と業力もあり、人の記憶を開き、人体のスイッチを開ける鍵もあります。人の身体には、物事に対する強い欲求や信息があります。特に現在の堕落した世にいるので、更に良くないものに操られ、汚染されています。

 数年前、私は三界内の男女のことを専任する魔の仙人を見ました。彼らは欲界に属します。男の魔仙は自由奔放のように、女の魔仙は艶めかしく見えます。男女の間に欲念が起きたら、彼らはすぐ入ります。

 彼らは手元に二つの情欲の瓶を持っています(左手の瓶には情を入れ、右手の瓶には欲で、皆濃度の高い物質です)。女の魔仙の左手の瓶から情(ピンクの物質)を出したら、ピンクの紗のように女性を覆います。女性はいつもと変わって異様になります。男性は、男の魔仙の左手の瓶から出したもの(深いピンクの物質)に覆われます。これらの物質によって、お互いに男女は引きつけられ、抜け出せなくなります。

 他の空間にある生命は情欲の物質で人を導き、操っています。操られた人には、理性がなく、気が狂っています。汚された肉体は、とても汚いのです。その過程で、異なる次元の生命は人の精華を吸い込んで、大いに満足しています。しかし、人は、この満足感を自分の感覚とみなして、性欲の感受を追求し、享受だと思い込みます。

 情欲を主管する神は、ほかの空間でこれらの物質が出したものを回収します。現在の人が使う変異した薬品は自分をも変異させています。回収されたものはさらに悪くなります。この過程を繰り返すと、情欲の物質がクロスして汚染され、人々にさらに感受を追求させ、魔に近く変異させます。

 他の空間のこれらの生命に操られることは、修煉者の屈辱です。自分はそれらにいじられ、本当の自身から解脱できず、自然だと思っています。実は人が認識する自然は存在しないものです。必然的に表れたものには理由があるはずです。生命はコントロールされているので、自在と言えるでしょうか。自分を動物と見なし、そんなことをする中で現れた音は、ほかの空間から見れば、動物が欲望を満足させた後に出した色魔の音で、とてもよくないのです。

 常人社会で、低い霊体が直接体に取り付くこともあります。ひとつは、悪夢です。人は寝ている間、なにかに抑えつけられたように、動くことができず、起き上がれないのです。その悪夢の中で、口から異様な声を出します。それは他の空間にある形象の怖い生命が出した声です。

 最近、明慧の交流文章『女子拘留所に拘禁された同修のために発正念をした時の所見について』の中で、同修が魔の貚(たん)について言及しました。この魔獣は直接人の肉体に取り付き、同修を迫害し、修煉を阻む色魔の一種です。

 もし、あなたが立体的に三界の各次元が見えるなら、夫婦生活の中で、利益を受ける各空間にある生命が多いと気づきます。悪いことをやりたい生命も少なくありません。同修は交流文章の中で、「色魔は修煉者の体の敏感な部位を狙い、功を発します。すると、体に強烈な反応が出ます。ある色魔は直接体の敏感部位を踏むか、あるいは色欲物質を排出して、人体に反応させます。もし更に見るなら、色魔が人体の器官内へ入り込んで、人を操り、人にそんなことをやりたいと思わせます。これで、体力を消耗し、更に命まで失わせます。

 色魔は人の思想と行動を操り、人に錯覚を与えます。人の体にどんな感じがあっても、実に汚染されています。色欲の心を放下しないと、色魔の世界に引っ張られます。

 ある日、同僚と一緒にご飯を食べている時、皆が男女の話で盛り上がってた際に、同僚の一人一人の後ろに色魔がいるのが見えました。それらが人を操り、悪いことを思わせているのです。怖いと思い、人をコントロールする色魔を滅ぼそうと一念を出しました。すると間もなく、同僚が「食事が終わったので、帰りましょう」と言い出しました。

 色という字の背後には、ナイフがあると言われますが、身、口、意の方面で自分自身を律する人は少ないのです。現在、人倫を問わず開放されています。街を歩く女性で肌を多く露出する服を着る人がいると、人はじっと目で追い、よくない念が動じ、妄想したり、喜んでそのような話をしたりします。実は既に業力を作っているのです。修煉者として、私たちは色欲に関することをしないだけでなく、それに関する念があってもいけません。神の目は電(いなずま)のように、色欲の念が湧いたらそれを見逃しません。それは罪業が同時にそこに存在するからです。

 私達の生命は高い次元から来ました。本来の次元の境界は、極めて自由自在です。後天的な色欲は汚れた服のように、修煉したければ、必ず徹底的に洗わなければなりません。これらは本当の自分ではなく、思想業力の表れだと見分けなければなりません。

 人々は、よく生物時計の話をしますが、生物時計は神が異なる生物に定めた活動のスケジュール表です。例えば、早起きをする人がいれば、寝坊をする人もいます。私の生物時計はどうのこうのという同修がいるかもしれませんが、実は神のコントロールの下にあります。時に、習慣を変えたいと努力しても、どうしてもできません。強い力で自分と対抗していると感じるかもしれませんが、旧勢力が按排した機制が効いているからではないかと個人的に思います。つまりこの機制をメンテナンスする神があなたをコントロールし、対抗しています。この機制自体が、神になったのかもしれません。この一切を見分け、乗り越えられたら、制約されないはずです。もしこれらが非常に良くないなら、解体しましょう。

 どの生命も本来の願いを持ってこの世間に生まれました。世間の情欲のような汚いものは、生命の底にある返本帰真という真の願いを阻むことができるでしょうか。

 一つのテーマの『小さい肥溜めを放下できなければ、大きい肥溜めを離れないはず』という交流文章があります。文章の中に、「男女の話を言うと、どんなに高尚な愛であろうと、誠実な恋をしようと、見かけはもっともらしい好みであろうと、心から好きであろうと、アイドルのような崇拝であろうと、結局のところ、みな肥溜めに入り込んでいるのではないでしょうか」、「心から、小さい肥溜めを放下しないと、この大きい肥溜めから離れられないし、ここで滅され、最終的に糞になると分かっています」と書かれてありました。同修は、体の肥取りでもいいし、思想の肥取りでもいいから絶対にやりませんとの意を表しました。

 色魔の本当の面目は、一般人は絶対に容易に見抜けるものではありません。それらは人類の体を占有しています。人の思惟を通して、人を操ります。絶えずエネルギーの補充が必要です。夫婦生活や、異性との体の接触と自慰などは、直接のエネルギーの補充になります。男女間の色目使いや、メディアの内容(映画、雑誌、テレビ、DVD、ネットを含む)などを、見るのが好きであれば、間接的にエネルギーの補充をすることになります。色魔が乾いて耐え難い時、人に生理的な反応をさせ、関連のことをやりたいと思わせます。人の情欲から与えられた感受、未練がましいと感じるのは、色魔を離れたくなく、色魔が死にたくない、体を離れたくないのです。あなたの頭の中に、かつてやったことの些細を思い出させ、親しく美しく、更に離れがたいと思わせます。なぜある人はピンクサロンなどの場所を通過した時、足を止めて中へ入るのでしょうか。実は、その人の空間場にある色欲の生命が好きで、同類を見かけたのです。あなたがこの状態の中に陥るなら、それらは嬉しく感じます。言い換えれば、それらの生命に直接、間接のエネルギーの補充をして、生き続け、引き続きあなたの行動を左右できるからです。しかし、人はそれを体の正常な反応で、本当の自分がこのようにしたいと思っているのです。

 人の情縁の中で、男女の色欲の情は最も怖いものです。その情は恥知らずで、命を奪うものです。言い換えれば、麻薬のように、人を中毒させます。それに迷わされた男女は飛んで火に入る夏の虫のように、命を燃やします。しかし、この情は最も頼りにならないもので、人を迷わせるのです。

 ある同修が、「人の皮は、つまり汚い糞だめのように、汚れが相当多いのです。自分が汚染された空間場も1回、2回できれいに掃除できるものではありませんし、宿世から積み重ねられた色欲の業力もすぐに滅せるものではありません。絶えず法の中で、清めて、昇華し、汚染を除去してから、昇華でき、法が修煉者へもたらした喜びや、神聖を感じるのです。これらの感受は物質が与えてくれた享受や肉体で感じた低級な感受を遥かに超えています」と語った。

 法を得る前後、心に大きな変化があります。法を得る前に、心が快楽でいっぱいだとか、悲しみでいっぱいだとか、心に躊躇がいっぱいだなどの話をするのは一般的ですが、法を得た後、心に喜びと平和がいっぱいと言いますが、もし、心に色欲がいっぱいだとか、嫉妬がいっぱいだとか、お金でいっぱいだなどの話をすると、怖いことになります。私達の修煉期間は短くないし、師父がすでに法理と天機を説かれましたが、いつになったらこの世間の汚れを掴む手を放し、慈悲に衆生を連れて天国の家へ帰る路を歩むつもりでしょうか。

 色魔を除去する最もよい方法は、多く学法することです。出来る限り短期間に自分の境界を高め、このような生命にコントロールされないために、常に強い正念を保ちましょう。一旦これらの生命が自分の空間場に現れたら、それらを除去する最もよいチャンスです。自分の思想に現れることを認めず、自分だと見なさず、身体上の反応も認めず、直ちに発正念をして滅するのです。

 (続く)

注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/15/352518.html)
 
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