内に向けて探すことは修煉の万能の宝
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文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年9月12日】私は1996年から法輪大法を修煉し始め、すでに師父について20年あまり修煉をして来た農家の大法弟子です。ここでは自分が修煉の中で内に向けて探し、自らを修める体験を同修と交流したいと思います。

 一、内に向けて探す

 最初のころ、私は「大法は素晴らしい、大法を学べば良い人になれる。病気治療と健康維持も出来る」という素朴な認識を持って大法の修煉を始めました。しかし、どう修めればいいのかについて、まったく分からず、内に向けて探す事はなおさら知りませんでした。法を学ぶことによって、次第に「修煉とは自らを修め、人心を取り除くこと」だと分かるようになりました。そして、人心を取り除こうとすれば、師父がおっしゃった法理に照らして、師父の法理に合致していればそのまま堅持し、合致していなければ決してしてはいけない、つまり、師父が説かれた「事々 対照し 做すところ到るは是れ修なり」[1]をやり遂げなければならないと分かりました。

 農家にとっては土地が命で、入念に耕作するのは農民の収益を増やす基本条件です。田んぼを耕す時、田んぼにあるレンガや瓦のかけらを見つければ、それを拾ってぽいと他の人の畑に捨てしまうことはよくありました。他の人も同じようなことをするので、こうして煉瓦や石ころはよく空中旅行をしてしまうのです。修煉後、このような他人の利益を損なう事をしてはいけない、修煉者は何事も他人のために考えなければならないと分かり、二度とこのような事をしなくなりました。私はレンガや瓦のかけらを拾うと、まず畝溝に集め、最後に畑から持ち出すようにし、こうして畑の中のレンガや瓦のかけらがだんだん少なくなりました。

 二、人心をその場で探す

 内に向けて探す法理を知ったからと言って、何もかもすべてうまく出来て、すべての関門を順調に突破できるとは限りません。人心との衝突や乗り越えられない関門は依然としてありました。

 ある年、秋の収穫が終わり、私は人に頼んで種まき機で小麦の種を撒いてもらいました。作業が終わって、「1ムーの費用はいくらですか? ここは1・3ムーですが」と聞くと、彼は「1ムーは15元だ、他の人なら40元払ってもらうが、あなたなら25元でいいだろう」と言いました。私の心の中では、「20元を払っても多いのに、どうして25元を払わなければならないのか」と思い、そこで、「あなたは間違っていませんか」と聞くと、彼は「間違っていないよ」と言ったため、私は仕方なく言われた通り25元を払いました。しかし、お金は払いましたが、心の中ではかっとなって、自分が修煉者であることをすっかり忘れて相手と言い争ってしまいました。その後、「自分は修煉者で、どうして常人と言い争いをするのか。どっちが正しいか、正しくないかは別として、常人と口論すること自体は間違っている。まして、自分の畑は斜面になっていて、種まきをする場合、大変手間がかかるのは事実で、多少多く請求されても当たり前ではないか」と思いました。しかし、やってしまった事はすでに挽回出来ないので、私は心の中でとても悔しくて、その悔しさは言葉で言い表せませんでした。

 4年経ち、夏季のトウモロコシの種撒きの時期になりました。またその人に出会ったとき、彼は未だに前回のことを根に持っていました。私はこれがチャンスだと思い、自ら進んで「前回は私が悪かったです。あなたと喧嘩すべきではありませんでした。今日、あなたにごめんなさいとお詫びをしたいです」と言いました。それを聞いた彼は顔の表情が穏やかになり、笑いながら、「この斜面の畑はこのように種を撒いたほうがいいです。そうすればしっかり撒けるからね」と言いました。私はすぐに謝まり、彼との心のしこりが解けました。

 修煉して間もない頃、私達の井戸のポンプが取り替えられ、使えなくなった古いポンプは家に置いていました。それが場所を取るので、私はポンプを売って、売った55元を自分のものにして、修煉者がやってはいけない事をやってしまいました。法を学んで、あるメリヤス工場の大法弟子が家に持ち帰ったタオルの端切れを工場に返した内容を読んだ時、私はこの55元を返すべきだと思いました。しかし、誰に返したらいいでしょうか。当時のグループはもう解散しているし、その後、また井戸を掘った時、私はこの55元を出して井戸掘りの責任者に渡したら、「要らないよ。よくあることだから」と断わられましたが、「私は修煉者ですから、返さなければならないのです」と言いました。

 農家は農作業をするのが基本ですが、農作業も大法弟子の修煉と密接に関連しています。一昨年の秋、家の隣の畑では小麦を作り、家の畑は何も作っていない空地でした。秋に畑を耕やそうとした時、そこに行って見ると、隣の小麦はすでに畝床を超え家の畑に侵入しており、どうすればいいかと困っていました。「畑を耕すと隣の小麦を傷つけるし、そうなるときっとトラブルになる」、私は心の中で「焦ってはいけない。私は大法弟子だから、これはけっして偶然ではない。きっと何か取り除くべき心があるのだ」と思いました。

 私は隣の畑の持ち主に、「すみませんが、これから秋の耕作をしたいのですが、お宅の小麦はちょっと畝床を超えてこっちに来ているので、どうすればいいでしょうか」と訪ねました。彼は「どうすればいいか? あんたは狡い。あんたは畝溝までトウモロコシを作っていると噂されているよ」と言いました。彼の言葉はとても耳障りで、メンツを重んじる私の心を強く刺激しました。しかし、私は前回の教訓をしっかり覚えて、自分を修煉者として見なし、焦らず怒らず心を落ち着かせて、「じゃ、私達は境界線をもう一度見てみませんか」と言いました。彼も賛成してくれました。「明日の朝にしよう」と約束して、翌日、私達は畑に行って見ると、彼の小麦はすでに彼の畑より畝床三つ分を超えていました。私は「小麦はすでに作ったし、肥料や種にもお金を掛けているから、今度の収穫が終わってから、境界線をやり直しましょう」と言いました。彼は「もういいよ。その分を壊していい。僕にはその時間がないから、あんたにおまかせする」と言いました。トラブルはこのように平和に解決されました。

 三、内に向けて一思一念を探す

 「修煉とは自分の心を修め、自らの一思一念を探すことで、有為の心を持って探すのではなく、無条件に探すべきだ」と私は理解しています。昨年の夏の収穫の時期に、小麦を収穫してからトウモロコシの種を撒き、畑を灌漑し、夏の作物を管理し、一つの作業が終わればすぐに次の作業に入らなければならないとても忙しい時期でした。しかし、この大事な時、私は突然歯が痛くなりました。昼間は働いているから痛みをそれほど感じず、仕事の邪魔にならなかったのですが、しかし、夜になると、横になってから痛くてたまりません。時には、しばらく座ってから、ひどい時、外でしばらく散歩してからようやく痛みが治まり、やっと寝ることが出来ました。

 「これは決して偶然ではない、きっと自分には何か放下していない人心がある」と思いました。私は師父の法に照らして内に向けて探したら、焦る心、闘争心、怨み心、顕示心、親戚の情などたくさんの人心を見つけて、発正念をしてそれらを取り除きました。「これらの人心をすべて取り除かなければならない、歯が痛いのはあくまでも内に向けて探すきっかけに過ぎない」と思いました。そして、「内に向けて探すのは歯が痛いためではなく、歯が痛くなくても、これらの人心を取り除かなければならない。歯の痛みを取る為に内に向けて探すのは有為の心だ」と思いました。これらの法理が分かってから、私は学法煉功を強化し、発正念をし、真相を伝え、農作業がいくら忙しくても、三つのことをしっかり行いました。

 内に向けて探すのは、自分の一思一念を探すことです。なぜなら、すべての考えは「神と人の違い」があるからです。一度、常人と雑談をした時、常人は「○○さんは何かをやる時、とても利己的で、よくないのよ。私の考えとまったく合わない」と言いました。私もその話に合わせてごまかしました。しかし、すぐに「自分は大法弟子で、常人と同じようにしてはいけない。これは口を修めていないことになる」と思いました。この事をきっかけに、深く自分を探したら、「自分が口を修めないことは本当に少なくない」と気づき、そして「そこには党文化の要素がある」と分かりました。暴かれたら、それを修め、解体しなければなりません。こうして、内に向けて探すことを通して、多くの人心を取り除きました。そして、歯も内に向けて探している間に治りました。

 以上は自分の法会での交流です。次元の限りがありますので、法に合致していない所があれば、同修のご叱正をお願いします。

 師父に感謝します!

 同修に感謝します!

 注:
 [1] 李洪志師父の詩:『洪吟』「着実に修める」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/9/4/348722.html)
 
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