魔難の中、師父に対する正しい信念を失わない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年9月16日】数日前、某同修が病業によって世を去ったことを知りました。この同修は1999年以前は現地の輔導員の1人で、大法を広めるために多くの事を行い、中国共産邪党による法輪功への迫害が始まった後も修煉の意志を挫くことなく三つのことに励み、現地の学法グループも立ち上げました。しかし、最近の2年間、彼女は家庭による大きな魔難に出遭いました。彼女の再婚相手と娘は彼女に対して大変ひどいことをして、彼女の家も娘夫婦に取られてしまいました。この同修はひどく傷つけられたと感じ、彼女たちに対して嫌悪と恨む心が生じ、のちに癌という病業に悩まされて、苦しみを舐め尽くした後、ついに世を去りました。彼女のことを知っている同修たちは皆残念に思い、心を痛めました。

 同修が亡くなったことは確かに大きな損失です。現地での知名度が高いこの同修の死は多くの常人を困惑させ、法の実証と真相伝えにも多くのマイナスの影響をもたらしました。堅い修煉の信念を持っていない同修たちはこの事の最中にさまざまな人心を表しました。彼女が属する学法グループのある同修はこう言いました。「あれだけ堅い信念を持って精進してきた彼女もこうなったので、もういいです。私もやはり旧勢力の迫害から避ける方法を考えるか、自分のための退路を考えなければなりません」

 法理のよく分かっている同修がこの事に言及するとき、大法弟子をダメにすると同時に、多くの衆生も毀したい旧勢力の按排はいかにえげつないかと感慨しました。

 同修が亡くなった後、周囲の同修たちの動揺する姿から分かるように、旧勢力の悪辣な按排が順調に進んだ背景には、亡くなった同修自身が恨みなどの人心を取り除いておらず、旧勢力によって古くから按排された魔難を乗り越えることができなかったこともありますが、他の同修が法を学ばずに人を模範とする正しくない状態も旧勢力の迫害の口実の一つになりました。その口実はほかでもなく、彼女の周囲の修煉者たちが真に法を認識しておらず、法を学ばずに人に学び、法に対する堅い信念がないため、彼らに「試練」を与え、彼らの人心を暴露させ、彼らを「向上」させるためにも、彼女を去らせなければならなかったのです。長年の魔難を経験してきて、真に法に則って法を認識できる大法弟子なら、誰もが旧勢力のこのような手法が分かるはずです。

 同修が旧勢力による迫害を受けて世を去ったことは、確かに私達の損失です。それによって戸惑い、動揺し始めた同修たちも同じく、巨大な魔難の中にいるのではありませんか。きょう、この交流文章で、この出来事の中で見聞きしたいくつかの問題に触れて、自分自身と同修たちに警鐘を鳴らし、教訓を得て、着実に修煉する中で旧勢力の按排を否定し、さらなる損失をもたらさないようにしたいと思います。

 事情を知る同修の話によると、こちらの同修は死ぬ前に病院で皆に「私はじき、師父について行きます」と言いましたが、密かに個別の同修にこのような話をしたそうです。「私はこれだけ多くのことをこれだけ良くやってきたのに、なぜこうなるのですか?!」。彼女と接したことがあるもう1人の同修の話では、今だけでなく、2年前に小さな病業が現れた時から、彼女はこのような言い方をしていたそうです。その時、ビックリした同修は善意で彼女に気づかせてあげましたが、聞き入れなかったそうです。その後、同修は再び彼女と接しなかったので、彼女に変化があったかどうかは知らないと言いました。

 これらの情況を聞いて私たちはやっと分かりました。この同修はすでに長い間自我に浸り(彼女の周辺には、長い間彼女に頼ったり、彼女を褒め称えたり、何でも彼女に聞きたがる同修が多くいた)、魔難の最中、意識がはっきりしない中で師父と大法に対する正しい信念を徐々に失いました。彼女はすでにそれらのよくない念がどこから来ているかを見分けることができなくなりました。彼女が邪悪から強いられた念を自分の考えだと思い始めた時、邪悪は彼女を迫害する口実をしっかりと掴みました。そのとき、彼女を助けようとしても助けることができない師父はどんなに心を痛められ、悲しく思われたことでしょう。

 そう言えば、私が知っている同修の中で、いまだに迫害を受けている同修、さまざまな大きな魔難の中にいる同修、そして邪悟してから修煉を放棄した同修たちも似たような言い方をしていたことを思い出しました。彼らも「私はあれだけ多くの事をしてきて、なぜこんな目に遭わなければならないの? 私はこんなに良く修めているのに、なぜ迫害に遭うの? 私はあれほどの犠牲を払ってきたのに、なぜここまで惨めに迫害されてしまうの?」と口にしていました。

 長期に渡って事を成すことを修煉だと思い、内に向けて探すことが分からず、内に向けて探そうともせず、魔難の中で邪悪が更に彼(彼女)を理性から切り離したため、彼(彼女)はいっそう原因と問題の所在が分からなくなってしまったのです。

 戸惑いの中で、一部の人は徐々に師父に対する正しい信念を失い、内に向けて探すことができず、探そうともせず、必然的に外に向けて求める邪道に入ってしまいます。さらに旧勢力の意図的な誘導の中で、彼(彼女)はますます多くの仮相を目にし、受けている苦しみを偶然なものだと思い、すべてを自分に対する不公平と見なしてしまうのです。そうすると、一部の人は師父に見放されたと思い、一部は師父の偉大さに不信になり、甚だしきに至っては一部は師父を恨み始めるのです。旧勢力が気が狂うほどあらゆる手口を尽くして迫害する中で、一旦、師父に対する正しい信念を失ってしまえば、誰もが容易に魔難を乗り越えられないでしょう。「師と法を信じ、旧勢力の按排を否定すべき」を口にする人がいますが、その人の内心の実際の思いは誰にも分かりません。しかし、全宇宙の生命にははっきり見えています。

 また、こう言う人もいます。「まだ終わらないのですか? このきりがない迫害はいつになったら終わりますか?」。一部の人は他の同修がよく修めていないため、正法全体の進展の足を引っ張っただけでなく、自分をも「巻き添え」にしたと怨み言を言っています。一部の人ははっきりそう言わないものの、語気に愚痴を滲ませながら長年強いられてきた苦しみを怨み、形を変えて師父を怨んでいます。なぜ、これだけ多くの人は正法が2017年に終ることに執着しているのでしょうか。「多くのことに耐えてきて、多くのことを成し遂げたから、もう十分だろう」と思って正法の終わりに年々執着し、師父と駆け引きをしたがる人もいます。

 愚鈍な肉眼を持つ人間はこの世間にあまりにも深く迷い込んでしまっています。この小さな物質空間の中で、各種の利益はあまりにも現実的で、各種の誘惑はあまりにも強烈で、各種の冤罪の恨みもあまりにも残酷です。末劫の最後において、世間の業力はとてつもなく大きくて、世相の表れも複雑で乱れています。私達は迷いに満ちた大きな染めもの甕のような人間社会の中にずっと浸っていて、絶えず汚染されています。このような環境から脱皮するのは容易ではなく、脱皮できたらすごいことになります。しかし、ほんの少しでも気を緩めればすぐに世間の波に飲み込まれて、落ちてしまいます。迫害による長期に渡る苦痛と恐怖の中で、私たちは精進する意志が緩んで衆生を救う願いを忘れ、世の中の物質の仮相を重く思うようになり、知らず知らずのうちに物質利益を追求して心地よさと安逸を貪るようになり、多くの場合は成仏の願望よりも欲求と利益を重んじるようになって、返本帰真の本願と法を得た当初の喜びを忘れてしまいました。 

 私たちが絶体絶命の境地にいる多くの生命の真の苦痛よりも自分の一時期の苦痛に執着してしまうとき、頭の中で師父に条件を言い並べるとき、慈悲深く救い済度されている師父を怨むとき、全宇宙の神仏は怒りの目で私たちを睨みつけているはずです。このような心の持ち主は新宇宙で居場所を見つけることが可能でしょうか? このような邪念を自分の考えだと思い込んで諦めようとせず、取り除こうとしたくなければ、師父も助けようがありません。その時、いくら旧勢力の按排と迫害を否定したいと言っても、自分を騙しているにほかなりません。

 多くの人は師父に感謝していると言っています。未来の新宇宙において師父が私たちに与えられる特別な栄耀はさておき(早くこの世を去った大法弟子たちが得られる誉れは他の生命がいくら望んでも得ることはできない)、私達の多くはすでに修煉前の病による苦痛、絶え間ない人間の争いによる疲れ、愛や恨み、七情六欲に苦しめられて生きていても生きた心地がしない希望のない日々を忘れてしまいました。

 はっきり言えば、もし大法を修煉していなければ、私たちの多くはとっくに不治の病と各種の頑固な病気で世を去り、輪廻転生の中でますます多くの業を造ってしまい、しまいに地獄に陥り、毀されるまで永遠の苦痛の中で生命をなくしてしまうでしょう。師父が私達を地獄から掬い上げて地獄から除名し、天に戻る大法を教えて下さり、光り輝く金色の神体を下さいました。このすべてを私たちに下さったのはもっとも慈悲深い師父なのです!

 法を実証する中で、師父の按排がなければ、私たちは何一つ成し遂げることができず、師父のご加護がなければ、私たちの命さえも常に危険に晒されています。旧宇宙における恩冤や恨みは複雑に入り組んでいて、中にいる生命の誰もが解すことはできません。師父による救い済度がなければ、旧宇宙のいかなる生命や要素も徹底的に壊滅される運命から逃れることができず、私達も含まれています。法を実証する中で私たちが成し遂げた僅かなことは、実は自分のために行ったことであり、しかも先史の誓いで私たちが必ず成し遂げると約束したことです。さらに、誓約を果たさなければ形神全滅になってもよいと重く誓いを立てました。自分自身のために行ったほんの僅かな事はそんなに大したことですか?! 一部の人は少し多めに大法の事を行っただけで天地を恨んで不平不満を言い、一部の人はほんの少しの事をしただけで自惚れてしまいました。成し遂げたことの大小はさておき、師父の救い済度や耐えて下さったこと、そして師父のご加護がなければ、私たちは輪廻の中で造った業によって地獄に陥って壊滅されるしかないのです。そうではありませんか。

 師父を怨む心は恐ろし過ぎて理性が欠けています。いつもそれらの邪念を自分自身の考えだと思えば、旧勢力の残忍な手口による迫害に遭います。旧宇宙の生命は大法弟子のよく修めた部分が新宇宙に隔離されることが見えないため、彼らのよくない言動だけをみて、修煉者とは言えず良い常人にも及ばないと判断し、思い切って迫害を実行してしまうのです。旧勢力が正法に参与したことはそもそも間違いで罪であり、毀された大法弟子と共に毀されてしまうのですが、それらが大法弟子に迫害を加える際は理に叶っていたため、師父と神々も救いの手を伸ばすことができません。

 一部の人は自分がよく行って来て、多くの犠牲を払ったにも拘らず迫害に遭ってしまったことにずっと困惑しています。もちろん原因はとても複雑ですが、自分が良くできているという考え自体が邪悪に思わせられた仮相かも知れません。往々にしてこのような人たちは内に向けて探そうとせず、見えているのは常に自分の長所なので、何を探し出せるでしょうか? どう考えても自分の功労が高く、何もせずにじっとして圓満成就を待てばいいと思う彼らは、一旦魔難に遭遇すると戸惑って落ち込み、大きな打撃を受けるのです。

 自分には間違いがなく、内に向けて探す必要がないと思う時、それは邪悪による妨害で、邪悪が私達の頭に反映させた仮相です。自慢の心が生じれば修煉は停滞し、尊大になれば、それこそは魔難の中で壊滅に向かっていくことです。

 数年来、皆さんは一つの現象に気づいたと思いますが、着実に三つのことを行って絶え間なく衆生を救っている同修であればあるほど謙虚で、自分の行ってきたことはまだまだ不十分だと思っているようです。私見ですが、絶えず内に向けて探すことができ、絶えず法に同化し、絶えず法に則って向上している大法弟子であればあるほど、真善忍の特性が彼らの身に表れやすく、彼らの知恵がますます高くなり、ますます宇宙の真相が見えて、ますます師父と大法の偉大さを体得し、師父の法を正す苦労および衆生とわれわれを救い済度する心労が分かり、ますます師父への感謝を知るのです。彼らの謙虚は必然的で、知恵が豊かになって来た時の必然的な現れです。

 また、真に向上できてやっと以前の自分の不足が見えるようになり、現在の次元を超えてやっと現在の次元の不足が見えるのです。今の次元で徘徊すれば、どうして今の自分の不足が見えるでしょうか? 真に向上している人は以前の自分の間違いに気づくことができ、日に日に堕ちていく常人だけが自分を偉く思っているのです。自分には間違いがないと思っている修煉者は恐らくまったく向上しておらず、甚だしきに至っては次元がさらに落ちたかもしれません。数年来、皆さんも見てきたと思いますが、邪悟した人たちのほとんどは自分が誰よりも「高い」悟りを得たと思っているのではありませんか? 頭の中では自分がよく修めていて、よく行っていて、大きな犠牲を払って来たという念がよく現れるようになった時は、警戒すべきです。自分の修煉に大きな問題が発生したと思って下さい。それは邪悪による騙しで、修煉者に迫害を加える「前ぶれ」で、あなた自身の心より魔が生じて落ちていくようにさせ、あなたが内に向けて探すのを必死で阻止しようとしているのです。

 このような状態にいる人はいったん予想外の魔難に遭遇するとすぐに心のバランスを失い、困惑に陥るのです。この時、邪悪は崩れたバランスにさらに拍車をかけて、あなたにこのような話を聞かせます。「あなたはすごくできていて、大きく犠牲を払ったのに、やはり迫害に遭いました。あなたの師父はあなたを見ておらず、あなたを助けていません」。また、邪悪は常人の口を利用してあなたを動揺させます。「あなた達のように表に出てきて、すごく頑張っている全員が迫害を強いられました。あなた達の師父はなぜあなたを保護しないのですか?」。これらは各種の黒巣の中で悪人がよく言う話ではありませんか? その目的は、あなたの心理的バランスを崩させて嫉妬心を起こし、不平不満を抱くようにさせ、内に向けて探すことを阻止して、師父に対する正しい信念を失わせるのです。

 数年来、ある言い方がずっと飛び交っています。「よく行えばよく行うほど迫害されるのです」。これは邪説で、現象だけに惑わされて、人に学んで法を学ばない邪悟です。

 実際、私達が本当に良く行っている時、邪悪は迫害する勇気がありません。師父の法身がいらっしゃり、護法の神も常に私たちを見守っているので、誰に迫害の魂胆があるでしょうか? 恐れるべきは邪悪に騙され、とっくに法から逸れているにもかかわらず、自分がよく行っていると思うことです。もちろん、たとえ私たちがよくできていなくても、旧勢力の参与を許してはいけません。私たちは師父の弟子だからです。一番憂慮すべきことは、外に向けて求め、心より魔が生じても改心せず、乗り越えられないほどの難に遭遇してから師父を怨むことです。

 私たちが師父に申し訳ないことをすることがあっても、師父は私たちに申し訳ないことをすることは絶対にありえません。

 いかなる大きな魔難に遭遇しても、常に自分の心より魔が生じることや傲慢になること、そして強烈な自我を一掃するように気を配り、心を静めて学法し、妨害を排除して内に向けて探せば、必ず魔難の原因を見つけることができます。師父に対する正しい信念を堅持すれば、必ず魔難を解体させる正念を得ることができます。

 交流のとき、ある同修から聞いた話ですが、彼は一時魔難の中で絶望し、意気消沈して困惑していました。邪悪はその隙に彼に「師父は私を助けてくれない」という邪念をむりやり押し付けて、彼に師父を怨む念を生じさせ、彼を徹底的に毀そうとしました。しかし、この同修はどんなに難しい状況を強いられても学法と内に向けて探すことを諦めず、心が静まらない時は法を暗記しました。徐々に、法がはっきりと頭に入るようになった時、彼は師父から智慧を頂き、心からこのような一念が生じました。「私が師父に申し訳ないことをしたことがあっても、師父が私に申し訳ないことをすることは絶対にありえません」

 この同修が言うには、内心からその一念が生じた時、すべてのよくない状態は直ちに強大なエネルギーに一掃されました。魔難は瞬間にきれいに消え去ったのです。それから、師父を怨むような邪念が現れようとする度に、彼は直ちにその言葉を繰り返し黙読(黙考)するようにしました。「私が師父に申し訳ないことをしたことがあっても、師父は私に申し訳ないことをされることは絶対にありえません」。そうすれば、正念はすぐに生じてきて、邪悪は一掃されました。

 師父に対する正しい信念があるかどうかを見るには、順調な時だけでなく、時には魔難の中や挫折を受けた時、私達が強い主意識を持って各種の悪い思想、思想業およびよくない観念の妨害を排除できるかどうかを見るべきです。そして、強い主意識を持つには、身を入れて学法することがとても肝心です。法は私たちの主意識を強化することができます。このような時こそ、精を出して法をちきんと学ぶべきです。暗記してもいいし、通読していいですが、必ず身を入れて学法しなければなりません。また、随時に内に向けて探し、自分を修めなければなりません。そうして初めて肝心な時に自分の位置を正しく決めることができて、師父と大法に対する正しい信念を保つことができるのです。

 どんなに大きく、どんなに長い魔難を経験しても、必ず自分を修煉者と思わなければならず、師父と大法を堅く信じなければなりません。病業状態にいて、このように言っている同修がいます。「私は師父を怨んでおらず、師父を信じています。師父に助けも求めています。しかし、どうしてこんなに長く魔難から抜け出すことができないのでしょうか?」。このとき、同修に心を静めて以下のことをじっくり考えることを助言したいです。

 一、自分は本当に師父を信じているでしょうか。思想の中で、現代科学や現代医学に対する依存心がまだ残っていて、万が一、師父からの助けが得られなければ、各種の方法を利用して「病気を治す」という退路を自分に残しているのではありませんか? 病気に対する観念をまだある程度保留しているのではありませんか? 病気に対するいかなる観念も一掃すべきです。あなたに「退路」を提供するいかなる人や事もあなたの修煉を妨げる妨害と試練ですので、それが魔難であることをはっきりと見極め、正念を持って否定した上で一掃すべきです。

 二、師父に助けを求める基点は何でしょうか? 今の面倒と苦痛を取り除き、今後の快適な生活や幸せを得るためですか? この基点は人間の角度による自分のためなのか、それとも大法を実証するためですか? 正常で健康な状態にいれば、もっと法を実証して衆生を救うことができる、これこそは衆生たちが邪悪によって作られた仮相に騙されないようにという、世人と衆生のための考えであり、修煉の角度に基づく考えです。

 長年修煉してきて、私たちは真に修煉の概念を理解しましたか? 本当に返本帰真して元の天国世界にある真の家に帰ろうとしていますか? それとも良い身体や、健康で幸せな常人生活を送ることができることだけに満足していますか? 目標が異なれば、その違いも大きくなります。師父はいつでも真に修煉したい人を助けることができますが、常人を容易く助けることはできません。異なる基点から異なる効果が現れます。

 魔難が過ぎてから精進しようと思ってはいけません。精進するには条件がなく、修煉にも条件を設けてはいけません。cから精進し始めて、苦痛の中でも常に自分を修煉者として思い、現れてくる怨む心や闘争心などの人心を取り除くべきです。怨む心を軽視すれば、それが段々と積み上げられて、ミクロの世界では山より大きく、花崗岩よりもさらに硬いものになってしまい、それに影響されたあなたはあれこれを怨むようになり、しまいに師父を怨むようになってしまいます。この怨む心を取り除き、具体的な対立の中に陥らず、仮相の裏にある本質を見抜き、慈悲をもって他の生命に接することができたとき、私たちは強い正念を発することができて、私たちのさまざまな恩怨が師父によって善解されるのです。

 修めているかどうか、内に向けて探しているかどうか、私たちは常に二つの道に直面しています。内に向けて探さず、着実に修めなければ旧勢力が按排した道を歩んでいることになります。旧勢力が按排した道をしばらく歩んだとしても恐れる必要はありません。それに気づくとすぐに内に向けて探せば、戻ることができます。第一歩が間違っていれば第二歩で戻り、第二歩も間違ったとしても第三歩で戻ることができます。以前はよくできていなくても今からよく行い、今回よくできていなければ、次回必ずよく行うように努力すればいいのです。つまずいて転んだら素早く起き上がって下さい。師父はずっと正しい道の道中で私たちが戻ってくることを待っておられます。

 旧勢力が按排した岐路でどれだけ遠くまで歩んでいたとしても、自分の間違いを正視し、心から自分を改め、内に向けて自分の心を修めれば、救いを望む手を師父に差し伸べていることになります。師父がぐいっと引っ張るだけで私たちを死に向かう道、壊滅に向かう道から引き戻すことができます。

 必ず師父を堅く信じなければなりません。師父の慈悲と洪大な寛容は私たちの想像を上回ります。師父と大法に対する正しい信念を貫くことは大法修煉者が各種の障害を突き破り、各種の魔難を乗り越え、順調に正法修煉の道を進み、最終的に圓満成就に到達する根本です。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/8/352187.html)
 
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