些細な日常生活での本性を見る
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年9月18日】先日同修の孔さんから自分が経験したことを聞きました。1回目はあるところに行って同修のために週刊を取ることを承諾しましたが、些細なことで遅れてしまいした。そのあと乗っていたオートバイが車とぶつかって壊れ、足を擦りむいてしまいました。2回目は姉にお金を貸しましたが、姉が返さないことを恐れてお金の一部は他人のお金だと嘘をつきました。オートバイに乗っているとき、危ないところでしたが、車にはぶつかりませんでした。後で考えると、本当に怖いことでした。彼女はすぐ自分の修煉に漏れがあり、旧勢力に隙に乗じられたと分かりました。1回目は約束に背いたので「真」ではなく、2回目は嘘をついたので「真」でもなければ「善」でもありませんでした。この二つのことに遭遇した孔さんは、煉功者の心が正しくなければ、突然揉め事が起き、心が正しければ、でこぼこの道も平らになると悟りました。

 大法修煉者として、重大な試練の中で正念を保つことができるのは、本当に殊勝なこと(心掛け・行いなどが、感心なこと)だと思います。学法を通じて私たちは分かったのですが、人間世界は一つの大きな寺院であり、大きな熔炉であり、大きな煉功場でもあります。ここでのあらゆることが我々の修煉と関わっており、日常生活には大法による私たちの心性への試練が終始続いています。修煉者として、周知の重大事件が社会に現れたときだけ強い正念を表すなら、我々の心性には多少なりの有為と無理強いの要素が混じっていて、潜在意識の中にはまだ覆い隠しやごまかしの要素があると言えるでしょう。大法弟子の修煉は生命が無条件に宇宙の法理である「真・善・忍」に同化して適従し、人間の性分から佛性への返本帰真であり、無私無我の体現なのです。

 古代の多くの素養がある挙人(科挙の試験の郷試合格者)は科挙の試験で「修身斉家治国平天下」(天下を治めるには、まず自分の身を修め、次に家庭を平和にし、次に国を治め、最後に天下を治める順序に従わなければならない)のような美しい文章を書きますが、いったん合格して官職に着くと、汚職で法を犯し、民に災いをもたらし、国政を誤る人も少なくありません。彼の読書はただの科挙の作文に対処するためのもので、面接での答えも、ただ試験官に聞かせるためのものだからです。彼の功名心は書いた文章と一致せず、言葉で素養(平素の修養によって身につけた教養や技術)を決めるわけにはいきません。まるで、今日技術的には合格して免許を取った運転手が法を守らず、飲酒運転や交通違反をするのと同じです。これは特別な監督がある下でだけで良く行なっているだけであり、その環境がなくなればすぐ元に戻ります。

 師父は「わたしが見たところ、皆さんは往々にして、法を学んで煉功しているときには心理状態がとても良いのですが、いったん仕事に接し、人に接すると、常人と同じになってしまって、ときには常人にも及ばないほどです。これがどうして大法を修めている弟子の行為なのでしょうか?」[1]とおっしゃいました。師父は「時に私は一部の大法弟子を観察していますが、多くの出来事においてその行動は本当に心配です。しかし、大法弟子の原則に関わる問題に遭遇すると、『この人は大法弟子だ』と本当に区別することができます」[2]ともおっしゃいました。

 師父はこの説法の中で、私たちは根本的な是と非をはっきりさせる点で、正念を持つことを肯定されると同時に、日常の多くの小さなことに対しても、私たちの心性が法に符合しているかどうかを見ることも示されました。我々は自分の変異した観念と私(し)の本性が現れても放置し、多くの欠点が見えても重視せず、積極的に修めなかったのです。これこそ師父が私たちを心配しておられるところで、しかも我々が修煉の中で軽視しやすく漏れがあるところなのです。過去の多くの修道者は、輝く黄金を目の前にしても心が動じなかったのに、値打ちのない托鉢用のお碗の比べ合いや欲念(ほしがる心)を起こしてしまいました。これは心性が執着せず、もれることなく佛性の境地まで達していないことを示しています。

 師父は「皆さんは修煉者であり、これは皆さんの以前のこと、かつてのこと、またはあなたの表れを言っているのではなく、あなたの本質、あなたの生命の意義、あなたが背負った責任、あなたの歴史的使命を言っているのです。このようにしてはじめて、あなたは本当の大法弟子になります」[3]と教えて下さいました。

 今は末法の時期にあたり、遙か遠い天体の大穹は宇宙の特性から離れ、三界の各層の空間もひどく混乱しており、生命は既に淘汰される瀬戸際になっています。このすべてを救うために、師父はこの法を伝えられましたが、その目的は、私たちに心性を本質から「真」に変えさせるためであり、このようにして初めて旧宇宙の天体が正されて、永遠に存続することができます。師父は「修煉の中で、皆さんは自ら真に着実に向上することによって、内面に巨大にして本質的な変化を生じさせているのではなく、わたしの力に頼り、外在する強大な要素を頼りにしています。これでは永遠にあなたの人間としての本質を佛性に変化させることはできません。もしも、みな一人一人が心から法を認識することができれば、それこそが威力無辺の法の体現であり強大なる佛法のこの世での再現なのです!」[4]と教えて下さいました。

 もし、私たち大法弟子がみな小さいことも大きいことも、夜も昼のように、寝ている時も覚めている時のように、一つの考え、一つの念や一言一行が全部法に符合していれば、修煉の道に設けられている大きな試練は、我々の心性の基準や純正な正念によって解決されます。逆に日常生活で自分を煉功者として厳格に要求することができなければ、人心によって自分が自分の修煉の道に関を再び作るので、ないはずの試練を招いてしまいます。

  注:
  [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「環境」
  [2] 李洪志師父の著作:『二〇一四年サンフランシスコ法会での説法』
  [3] 李洪志師父の著作:『大法弟子とは何か』
  [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「警告の言葉」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/20/352757.html)
 
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