文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年9月25日】私は1996年から法輪大法の修煉を始めました。厳しい試練の中で、20年にわたって修煉の道を歩んで来ました。私は堅実に修煉しており、大きな病業も顕れることもなく、生死を前にしても、平然としていられると思っていました。
ところが、最近突然、目が腫れてきてチクチクするような痛みがあり、ものが見えづらくなりました。それでも休まずがまんして仕事をしていました。私は広報の仕事をしており、最新の情報を見るために、パソコンと携帯電話をよく使っています。私は内に向けて探しました。常人のものを見過ぎるということと、邪悪に干渉されたことに気づきました。そして、私は沢山の発正念をしました。しかし、2日経ちましたが、目の症状はさらに酷くなっていきました。同僚たちは私を見て、早く病院に行くように勧めました。
私は「旧勢力の按排を否定します。私には師父がいます。旧勢力は全ての試練を私に与える資格はありません」と心の中で常に念じていました。
そして、落ち着いて考えてみました。「目は心の窓である」という言葉があります。もしかしたら自分の心に問題があり、心が悪くなったのかと思ったのです。師父は「修煉者にとって内に向けて探すことは最も有効な方法です」[1]と説かれました。私は本当に内に向けて探したことがあったでしょうか?
やっと自分の問題を見つけることができました。そして内に向けて探しました。私は主人のことを見下している、彼の修煉状態がよくないとか、大法の要求に符合してないとか、職場のある人もあまり好きではないとか、人格が悪いと思ったり、金持ちの愛人になるなんて見るたびに気待ちが悪いと感じたり、逆に、人の良いところを見て心のバランスを崩したり、それらはすべて嫉妬心です。人を見下すことも、自分より大いに優れているとねたむことも、これらすべてが、強烈な嫉妬心の現れだと気付きました。
私は20年も修煉していて、こんな顕著な嫉妬心を抱いていたとは全く感じていないなんて、本当に驚いてしまいました。知らないうちに、自分だけはよくできていると思っており、他の人はよくできてないと思っていました。それからは、いつも大法に基づいて人を量ることにしました。心性に大きな問題が起きた場合は、身体に反映しないはずがありません。師父は「実は物資と精神は同一のものです」[2]と説かれました。とすると当然、心が汚れてきたので、目も必然的に汚くなります。
私は深く、深く隠れていたこれらの嫉妬心を見つ出すことができました。そして、私は師父に「師父、私はこれらの嫉妬心は要りません。根こそぎ掘り出し、取り除きます」と言いました。数分後、目の痛みはなくなり、次の日には、目の腫れなども消えました。
師父の御恩に感謝いたします。
注:
[1] 李洪志師父の著作:『各地での説法九』「二〇〇九年ワシントンDC国際法会での説法」
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』