文/中国の大法弟子
【明慧日本2017年9月25日】2日前、私は一つの出来事から「病気」に対する新たな認識を体得しました。その日の昼休み、私はご飯を食べた後、リビングのソファで20分間ぐらい昼寝をしました。あまり暑い日だったので、上半身の服を脱いで、扇風機をつけたまま寝ようとしましたが、突然、「扇風機の風がお腹に当たると病気になるかも」という念が出てきて、バスタオルをお腹にかけました。起きてから、お腹の調子がなんとなく悪いと感じましたが、そのまま服を着て仕事に行きました。
帰宅したあと、お腹の調子がどんどん悪くなり、痛くなりました。「なぜ、お腹が痛くなったのか? どこに問題があるのか?」と思い返してみると、今朝の自分の良くない態度に気づき、内に向けて探し始めました。
落ち着いてよく考えて、昼間のことを思い出しました。私は小さいときから、「お腹になにか掛けないと、冷えて痛くなる」という生理的、医学的な「常識」を思っていました。「この常識は観念ではないのか! 私は修煉者ではないか、冷たくなるのか? そんなことはないはずだ」と考え直しました。
原因を探した後、私は「小さいときから形成した常識、数十年も持ってきた病気の観念を解体して取り除き、腹痛を起こさせる裏の邪悪を解体する」と正念を発すると、腹痛はすぐ消えました。その効果は「さおを太陽光線に当てると影ができる」(効果がすぐに現れる)と表現するしかありませんでした。
その後、私はこのことを同修に話すと、同修は「あなたの腹痛は、観念が求めた魔難ですよ」と言われました。今もその日のことを思い出して、とても身にしみて感じました。20年も修煉してきましたが、少しの不注意で、常人の常識的な病気の観念で、トラブルや魔難を招いてしまうことがあると痛感しました。
よく考えてみると、このような観念は、私たち修煉者の頭の中にどのくらいあるかわかりません。生きてきて、各環境で積んできた、いわゆる経験や方法、常人の中で「科学的」、「医学的」な知識と常識によって形成した観念は、すでに大脳に溶け込んで、それらは障害を避けられる、健康を守れるという、ごく自然な観念になっています。そのため、それらが常人の観念だと、気づかないのです。
私自身を含めて周りの同修も同じく、一人一人が多かれ少なかれ、さまざまな病気の観念を頭に保存しています。例えば、体を冷やすといけないとか、何を食べてはいけないとか、体に良い食べ物はなにかとか、どこに痛みが出るとどの病気になっているとか、どの検査の項目で数値がどのくらいあれば病気になるとか、血圧が高いとき低いときの症状や、血糖値がどれくらい上昇すればどんな悪い症状が現れるとか、多くのよくない観念を持っています。
長期的にこれらの病気の観念がなかなか取り除かれていないため、重い症状の同修もいれば、軽い症状の同修もいて、長い間病業状態に陥っている同修も少なくありません。私の知っている同修の中で、密かに入院を繰り返したり、家で保健薬品を飲んだり、隠れて薬を飲んだりしている同修がいます。
もちろん、入院したり、薬を飲んだからといって、修煉ができなくなるわけではありません。修煉は容易いことではありません。修煉者には各自の難や関があります。例えば、子供弟子なら、コンピュータゲームに夢中になることが多く、若い弟子が名や利の誘惑や色欲の影響を受けやすいなどのことがあります。
相対的に言えば、年配の同修は病気の観念に影響されやすいのです。ですから、この方面について交流する必要があると思います。より早くこれらの観念を除去すれば、病業の魔難から抜け出せるのです。
まず、私たちは修煉者ですから、私たちの身に起きた「病気」の虚像を見破らなければなりません。
数年前、聞いた話ですが、ある同修が病業状態の同修に「病気は虚像です。認めてはいけません」と言うと、病業中の年配の同修は、「虚像なのですか? こんなに痛いのに虚像だというのですか!」と言い返したそうです。
当時、私もこの問題について、どう答えればいいのかわからなかったのです。確かにそれらの症状、痛みは実在しますが、虚像とはどういうことでしょうか?
しかし、2日前に私の身に起きたことで、この問題に対して、「常人はお腹に何か掛けなければ、腹痛になるかもしれず、重くなり、薬を飲み注射をして、さらに入院することもある。常人は、そういうやり方で業力を返して病気を治すので、常人ならそれは本当に病気だと思うのだ」という明確な認識を体得しました。
しかし、私たちは修煉者です。常人と同じ症状が現れ、誘因も同じですが、偶然ではありません。その病業はその修煉者の観念を変えさせるため、執着心を取り除くため、心性を向上させるために現れたのです。例え、その病業が邪悪の妨害だとしても、修煉者が修煉に漏れがあるから、邪悪に隙に乗じられたのです。自分が修煉者だと正しく認識して、内に向けて探し、観念を変え、人心を取り除き、正念で対処すれば、その病状はすぐにも消えてしまいます。それは、1秒くらいのことです。それが病気だと言えますか。現代医学と科学でその現象を解釈できますか。その病業はただ、常人と同じ症状、感覚なのです。
明慧ネットで同修の修煉交流文章で、このような事例がたくさんありました。例えば、ある同修が連行され、留置場に入れるために健康診断を受けさせられました。その同修は師父に病気の虚像を演化するようにお願いしたところ、血圧がとても高くなり、入所を拒否されました。しかし、同修は高血圧症を患っていません。また、ある同修が、拘禁されているとき、迫害を加えられたため、難病になってしまったかのように、すぐ死んでしまう可能性があり、呼吸する息も臭くなっていました。そのため、拘禁した側が責任を負うことを恐れて、同修を帰宅させましたが、帰宅した同修は数日で持ち直しました。これらの例は常人に理解できますか。病気だと言えますか。
ですから、修煉者の身に現れる「病気」の状態は虚像ではありませんか。これらのことをはっきり認識できている修煉者には虚像だとわかっています。しかし、病気だという観念を持っている修煉者に虚像だというと、その苦痛を確かに感じていれば、なかなか受け入れられません。
もし、修煉者が自分を修煉者だと思わず、師父の法に則って自分を律していなければ、病気だと考えれば、自分を常人の位置に置くことになります。そのとき、長期に形成した病気の観念がそれらの症状や痛みは医学知識に繋がり、何々病だと思わせられるのです。常人なら、その病気になれば、当然その症状や痛みが出てきます。そうなると、肉体的な痛みだけでなく、精神的にも影響されます。筋骨を労することなら、まだ乗り越えやすいのです。師父は、「『其の心志を苦しめる』ことこそ本当に次元を向上させるための鍵です」[1]とおっしゃいました。
一部の同修は医学知識が非常に豊富で、医者ではないのに、修煉する前にたくさんの持病があったため、「長患いをすれば医者になれる」(病気に詳しくなること)、体のどこかに異変や痛みを感じたら、心性から原因を探さずに、「自然」に何々病だと思うようになります。しかし、その「病気」の観念が強く、病気を恐れれば、邪悪に隙に乗じられ、ますますその病気のように感じて、さまざまな妨害をもたらされるのです。例えば、常人である家族や親戚、会社側に病院に行くようにと促されて、本当に検査を受けに行くと、想像し、心配していたその病気だと診断されてしまうかもしれません。検査の結果、目の前に出された数値を見て、自分がやはりその病気だと確信するのです。
一部の同修は少し具合が悪くなると、どこが痛いと、すぐに修煉していない家族や周りの人に告げます。常人たちが、「法をよく勉強してください。師父と法を信じて内に向けて探してください。正念で妨害を除いてください」などと教えてくれますか。やはり彼らは尊敬しているあなたのことを心配し、「薬を飲んでください。病院に行ってください」としか言わないでしょう。もし、あなたが行かないと、トラブルになったり、理解されなかったりしてしまうでしょう。それは自分で必要のない妨害と魔難を招くことになるのです。
考えてみてください。具合が悪いとき、「内に向けて探すこと、師父に助けを求めること」を思い出さず、常人にしゃべって、常人の慰めを求めれば、「病気」だと認めたことになるのではありませんか。実は多くの場合、修煉者の体に異変が現れたとき、心性が向上すれば、すぐ乗り越えられますが、ますます病状が重くなっていくというのは、自分が修煉者だということを忘れ、常人になってしまい、「病気」だと思い込んでしまうからです。
師父は「それは、求めること、病気を求めることにほかならず、そうなると病気が本当に身体の中に侵入してきます」[1]とおっしゃいました。病気を求めるのならば、病気はやって来るのではありませんか。
しかし、そのとき、修煉のことを忘れず、内に向けて探して、正念で対処し、心性から原因を探せば、魔難はすぐ去っていきます。邪悪は大法弟子の人心に向けてさまざまな妨害をするのです。同じ症状でも、常人は病気ですが、修煉者は病気ではないのです。ただ修煉者が「病気」という観念を取り除かず、自分を常人とみなすと、その症状が長引きます。長引けば、本当に常人の病気になり、次第に虚像が本当のことになってしまいます。
同修が良く修めていないというわけではありません。何人もの人が、1999年7.20前から法を信じ師父を信じ、いろいろな困難を乗り越えてきた同修と接触し、神もこれらの同修を敬服するほどです。ただ病気という観念をなかなか取り除くことができなかったのです。交流するとき、同修もその虚像を否定しなければならないとわかってはいるものの、内心では「虚像」を「病気」だと認めているのです。ですから、毎回、具体的な病業を突破できず、常人と同じような方法で解決しています! 本当は徹底的にこの長期に形成した病気の観念を変えなければならない時期に来たのです!
提案ですが、この方面の妨害が大きい同修は、その問題を正視しなければならず、「病気の観念」とその裏にある「恐怖心」に向かって、直接「発正念」をしたほうがいいと思います! これらの観念は実質上、「物質」ですので、これらの物質とその裏の各種の邪悪を「徹底的に解体」してください。そのとき、「柳暗花明又一村」(苦境を経てようやく希望が見えてくること)をきっと体得することができます。
長期に魔難の中にいる同修は、打撃を大きく受け、自信がなくなりました。本当にこの難を乗り越えることが難しくなっていることは理解できます。
しかし、どんなに難が大きくても自分を励まし、早く起き上がって、自分が常人や老人、病人だと思って人に頼ることをしないでください。あなたは大法弟子ですよ。無量の衆生の王と主です。あなたの周りとあなたと縁がある常人はあなたの衆生です。彼らはあなたに救い済度されることを期待しています。それは本当の事実です。彼らはあなたに救い済度された後、あなたの世界の衆生になります。彼らは常人で、あなたが彼らからの慰めを期待するとき、あなたはすでに自分を彼らより低い位置に置いています。彼らのわかる一面はあなたに対してどれだけ失望しているかわかりますか。あなたの衆生はあなたが頑強(粘り強くて、相手になかなか屈しないこと)であることを願っています。
巨大な魔難に遭っても、あなたは内に向けて探すことができて、師父と法を信じ頑強で勇敢に前へ進むことが、どんなに素晴らしく偉大なことか知っていますか。将来、あなたの世界の無量の衆生は偉大な王であるあなたの人間であった頃のこれらの物語を伝えることになるでしょう。というのは、彼らは、最も恐ろしく、最も堕落して、最も複雑な人間の末劫のとき、王であるあなたが無数の困難を乗り越え、迷うことなく歩んできたことを見てきたからです。あなたの勇敢さと大法を堅持することで、無数の衆生が全滅するはずの運命から避けられ、美しく新しい宇宙に入れる機会を与えられました。彼らは本当にあなたを敬慕し感謝するのです。
強くなってください! 目の前の困難を大きく重くみないでください! あなたは孤独ではなく、あなたの背後にはあなたと関係のある無量の衆生がおり、あなたはその無量の衆生の未来を担っています。彼らのことを考えれば、あなたが魔難に打ち勝つ勇気と意志が出てきます。師父がずっとあなたのそばにおられることを忘れないでください! 困難に遭ったとき、第一念で師父と大法を思い出してください! 大法の威力は無辺で、やり遂げられないものはありません!! 師父と大法はあなたの本当の頼りです!!
旧勢力に無理やりに押しつけられた一切を承認しないでください! 正念でその千百年来、骨まで溶け込んで、形成した「病気の観念」を取り除き、各種の「常人の理」を放棄したとき、あなたの発する「正念」は強くなり、「旧勢力の一切の按排を否定」することができます!
注:
[1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』