「他人のため」の考え方の裏に隠れた私心と観念
■ 印刷版
 

文╱中国の大法弟子

 【明慧日本2017年9月26日】修煉の中で、「私達は私(し)のための旧宇宙から抜け出し、真の無私無我の新宇宙に入らなければならない」ことを知っています。しかし、旧宇宙の生命としての多くの思考パターンは依然として私達の心に残存し、私達の言動に影響を与えています。

 多くの場合、私達は「他人のために」考えているつもりでも、実は、そのいわゆる「他人のため」の裏には多くの私心と観念が混在しているのです。

 ある時、妻が私にある家族の集まりに参加してほしいと言いました。その目的は「彼女の家族ともっとコミュニケーションを取ってほしい」とのことでした。しかし、集まる場所はカラオケの個室となっていました。「コミュニケーションのためならば、家で一緒に食事をすればいいじゃないか。なぜお金を払ってまで、あんな悪い空間に行く必要があるのか」と私は反発しました。

 しかし、妻は「それはあなたのために選んだのよ。あなたにもう少しお洒落になってもらって、もう少し現代生活に適応してもらいたいわ。ましてあなたがお金を出す必要もないし」と言いました。「このようなやり方は私のためではなく、私を害しているのだ……」と私は厳しい口調で対抗しましたが、しかし、妻は「あなたのために考えているのに、どうして私の気持ちを理解してくれないのかしら」と、とても不機嫌になりました。このまま自分の気持ちをストレートに言っても、妻にきっと理解してもらえないだろうと思って、そこで、「行くだけは行って、彼女の家族とすこし話をしてから、早めに失礼させてもらおう」と気を改めました。

 行く途中、私はずっとその場所にあるよくないものを一掃するために発正念をしました。カラオケの個室で、彼女たちが歌ったり踊ったりしたので、私は少し雑談してから、昼間に仕事で疲れていたため、そこで居眠りをしてしまいました。妻の家族は私の様子を見て、「早く帰って休んで下さい」と言ってくれました。

 帰ってから、妻は「あなたはどうして元気にならないのか? どうしてもう少し喜ばせてあげられないのか」と私のことを愚痴っていました。私は何も言わず、ただとても疲れを感じて早く休みました。

 翌日、私は妻に「あなたのいわゆる『私のため』というのは、あなたの観念に過ぎず、私の修煉の妨害になっているのだ。あなたも修煉者で、ああ言う場所は行くべき所ではないと分かっているはずだ。家族の集まりだったら、どこを選んでもいいのに、どうしてああ言う所に行かなければならないのか? まして、結構お金もかかるじゃないか。修煉者として、もし最も基本的な是と非すらはっきりと区別出来なければ、どうやって修煉し、どうやって人を救うのだろうか」と、とても厳しく言いました。妻は黙って何も言いませんでした。

 またある時、姉が私に会いに来た時、結構高価な果物を買ってくれました。しかし、私はその果物を食べてから、体の調子がよくありませんでした。私は姉に「せっかく高価なものを買ってくれたのに、しかし、どうも私には合わないようだ。逆効果だったね」と言いました。姉もそれを認めました。

 修煉の中で、私達は無意識のうちに、自分のやり方や考え方が正しいものだと判断して、その考え方ややり方を「他人のためにもなる」として、知ってか知らずか、相手の人に押し付けているのではないでしょうか? 特によく知っている相手の場合、しばしば強引に相手に受け入れさせてしまうような経験があるのではないでしょうか? そして、もし相手の人が自分のやり方を受け入れてくれなければ、口に出さないにしても、心の中で相手の人を非難したり、否定したりすることもあるのではないでしょうか?

 実はどちらの立場から見ても、「相手の為」という気持ちは有難いのですが、しかし、本当に相手の人の為になるかどうかは、できるだけ自分の認識や観念で判断しない方がいいと思います。自分の考え方を相手に押し付けてしまう場合、けっして良い結果には結びつきません。

 なぜ、相手の人が「あなたのため」の考え方を受け入れてくれなければ、私達は嫌な気分になるのでしょうか? 私の理解では、それはその考え方には私心と観念が混在しているからです。少なくとも、その中には自分の思う通りにやってほしいとの意図と考えがあるのではないでしょうか。それは「私(し)のため)の現れです。もし、本当に無私無我をやり遂げるならば、「人のための考え方」を提案し、相手の考え方や意見を尊重し、けっして相手に自らの考えを押し付けたりしないのです。

 それなら、もう一方の人にとっては、相手が自分の為に考えてくれているならば、自分はまず相手に感謝する気持ちを持たなければなりません。そして、相手の考え方ややり方が自分の考え方より優れているかどうかを真剣に検討し、もし本当に自分より優れていれば、それを受け入れ、もし自分に適合していなければ、決して無理にそれに従ってはいけません。ただ、この時、必ず自分の本来の思考パターンを放下して、真に相手の考え方とやり方の「可能性」を検討しなければなりません。こうすればはじめて自我を放下して協力することができるようになるのです。

 客観的に言えば、生命が異なり、特徴が異なり、環境が異なり、執着を取り除く方法や法を実証する方法も異なります。いろんな意味で、日常生活の中の些細なことに於いてもそれぞれかなり違っているため、物事の見方や考え方が異なるのも当然なことでしょう。もっとも肝心なのは、私達は他人のために考えると同時に、他人を包容する大きな心を持たなければならないし、そして、生命の豊かさと次元の多さを認識しなければなりません。それは私達が日常の修煉の中でよく見落としてしまう問題ではないでしょうか。

 修煉は自我を浄化する過程です。つまり実践の中で絶えず自分の執着や人心、観念を放下し、そして、大法の指導の下で、自分をますます清らかに、純正に修めなければなりません。

 自我と様々な観念を徹底的に放下してはじめて、同修との協力の中、真相を伝える中でもっとしっかりと行う事ができるようになるのです。さもなければきっと障害と妨害をもたらしてしまいますので、是非ともこの問題を重視するように促したいと思いました。

 個人の体得です。参考にしていただければ幸いです。

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/9/21/353912.html)
 
関連文章