風雨の中でも、信念は決して揺るがない
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年10月9日】私は今年77歳になります。法輪大法を修煉する前は肝炎や肺結核、関節炎など様々な病に苦しめられていました。病を治すため、1975年から多くの気功に触れ、1990年には居士になって仏教に専念しました。(けれども、それらの気功師や和尚たちは皆本当の修煉者ではなく、誰もが金銭目的であることに気づいたのです)。その後、山奥に入って修煉しようとも考えました。当時、多くの居士たちの間で、「誰かが正法を見つけたら、必ず他の人たちにも教える」という約束事まであったのです。

 「ここまで申し上げましたので、わたしはもう一言つけ加えたいと思います。われわれの修煉界では、高い次元へ修煉したいと熱心に思っている人が少なくありません。あちこちへ法を求めに出かけ、金をたくさん費やして至るところを回ってきたものの、結局求める名師に出会えていないので す」[1]と師父は説かれました。この説法を読む度に、涙が流れます。長い間待ち続けて、長い間探し求めて、私はやっと正法に出会えたのです。

 一、法を得た奇跡

 1992年、私は一度『法輪功』を読みましたが、機縁が来ていなかったのか、当時は修煉しようとは思わず、今でもその時、修煉しなかったことを大変後悔しています。

 これまで様々な気功に手を付けたのは全て病を治すためで、功能を求めたり、神通力を求めたりして、道徳を重んじることも、心性を修めることもしませんでした。功能を手に入れようとこっそりと気功師たちに金銭を貢いだり、品物を差し上げたりもしました。天目を開くため30元(当時では月の給料の75パーセントを占めていた)もかかりましたが、結局、願いは叶いませんでした。仏教の中には功能の高い和尚がいると聞きましたが、居士になってから、現実はそうではないことに気づきました。多くの和尚や居士は戒律を守らず、中には夫と子供を捨てて和尚と駆け落ちした居士までいたのです。中国の四大仏教名山(五台山、峨眉山、九華山、普陀山)に正法があるという噂があったので、1992年には九華山と普陀山に登り、仏様を拝みました。帰りに当地の居士たちがある和尚に20元を布施したものの、良い顔はされなかったという話まで耳に挟みました。四大仏教名山のどの山もこのような情況らしく、もはや中国で正法を探すのは至難の業でした。すっかり失望している時、運命に大きな転機が訪れました。まさに血眼になって探し求めていた物がひょっこりと目の前に現れたのです。

 ある日、公園で、法輪功を修煉している居士に出会い、彼女に法輪功の事を尋ねました。話している時、突然お腹のあたりがぐるぐる回っている感じがしたので、師父が面倒を見てくだり、法輪を下さったとすぐにわかりました。感動と興奮に駆られて思わず、「師父が法輪を下さった!」と叫んでしまったのです。

 それからは、お腹にある法輪は24時間止まることなく回り続け、その2年後にはなんと月経が来たのです。(私は50歳で閉経しましたが、58歳に再び月経がきました)。本当に不思議なことです。師父に会ったこともなければ、お金も1銭すらかけていません。それなのに師父は法輪を下さいました。まさにずっと探し続けてきた師父に、やっと出会いました。必ず最後まで、大法を修煉していこうと決心しました。

 二、自ら法を勉強する

 その日の夜、煉功で『轉法輪』を買い求めました。そして、その日は全く眠らず、一気に『轉法輪』を読み終えました。『轉法輪』の博大で奥深い法理に心を打たれ、今まで分からなかったこと、必死に追い求めてきたこと、そして、人生の意義や、何もかもが明白になりました。今までにない至上の喜びを感じ、『轉法輪』を宝物のように両手で抱えながら涙を流しました。漸く修煉の道に入ったのです!

 学法する時はまず師を敬わなければなりません。「その当時学校へ行く人は、みな坐禅を重んじ、坐る姿勢にも厳しかったのです。筆を持てば、気を運び、呼吸を整えることを重んじていました。どのような仕事をしても心を浄め、息を調整することを重視し、社会全体がこのような状態にあったのです」[1]と師父は説かれました。昔の人は何をしても真剣で、誠実で、礼儀正しい態度を取っていたので、我々がこの上ない神聖な大法を学ぶときは、なおさら真剣に、師と法を敬う態度でなければなりません。法を読むとき、分からない漢字や読み方があいまいな漢字がある時は、必ず辞書を引いて、正しい読み方を覚えます。決して間違った読み方をしてはいけません。多くの説法や法会で、師父は法を勉強することの大切さを毎回説かれました。真剣に法を勉強しようと、私は毎日決まった時間(午後2時半から5時半)に学法します。法を読むときは心を静めて、意識を集中させ、一文字一文字をしっかりと頭の中に入れます。大法は私のミクロの空間まで届き、細胞の一つ一つにまで轟き、心身共に大法に溶け込んだような感じがしました。また、さらなる深い法理も現れました。長い間ずっとこのように法を勉強してきたので、今では本を持つと自然にこのような状態になり、外界の雑音など全く耳に入らず、まるで師父が説かれた静功を煉る時に現れる状態のようです。卵の殻の中に座っているかのように、思考が非常に鮮明です。とても素晴らしい感覚なので、学法が大好きになり、本を持つとなかなか下ろせません。

 法を勉強した後の心の充実や心性が高められた感じなど、言葉に表せられないほどの素晴らしさを体験してきたので、大法弟子一人一人が真剣に法を勉強し、あまり学法を重視しない弟子たちも心を静めて法を多く勉強することを祈っています。「法の勉強は形式的なものになってはならず、精神を集中して勉強し、本当に自分が勉強するようにしなければなりません」[2]。「現在、中国ですでに百回以上読んでも、まだ読んでいる人がいます。しかも、もうなくてはならないものとなり、中の内涵があまりにも大きいので、読めば読むほど多くなり、読めば読むほど多くなるのです」[3]と師父は説かれました。この説法を読んでから、私はさらに法を勉強するようになり、『轉法輪』はすでに1200回以上読み、50回ほど暗唱しました。また、師父の各地での説法や経文を毎日1時間ほど勉強しています。読み終える度に回数を記入していますが、数自体には拘(こだわ)っていません。たださらに法を勉強しようと自分を励ますためなのです。

 そして、学法を通じて、知らない内に多くの執着心も放下しました。

 大法を修煉する前に、夫を亡くして再婚しようと思った時期があり、再婚相手も決めていました。彼の事を本当に気に入って、会う度にドキドキしていたのです。修煉した後、自分は決して再婚してはいけないと認識し、修煉を第一にしようと彼と別れました。けれども、別れた後も彼の事がなかなか頭から離れず、思い出す度に泣いていました。しかしながら、学法を通じて、いつの間にか、自然に彼の事を忘れたのです。ある日、市場で、少し離れたところで偶然彼の姿を見かけました。けれども、特に心が動揺することもなく、以前のような強い感情も湧き上がらず、ただの通りすがりの人に見えたのです。これも師父のおかげでした。

 法を勉強することで、自我に執着する心理を放下しました。何をするにもまず他人の事を先に、同修の事を先にし、相手が受け入れられるかどうかを真っ先に考えるようになりました。大法を修煉する以前に夫を亡くし、子供たちもそれぞれの家庭を持ち、私一人で暮らしています。師父は私に素晴らしい修煉の環境を与えてくださったので、これを一人占めにせず、1998年から私の家は学法拠点となりました。週に1回、例え迫害の状況がどれほど険悪でも、邪悪がどれほど暴れても、家での学法と交流は全く影響を受けませんでした。その他にも、同修たちが技術を学ぶときや、小型の法会を開く時、連絡事項がある時など、いつも私の家に集まり、私も断ったりしません。大法のため、衆生を救うためなら、私は全力で協力しました。

 同修がトラブルや難関に遭った時、よく私と交流します。私は同修を責めずに、相手の話を聞き、困っているのを助けます。また、特別な状況に陥っている同修の大法の書籍や資料も安全のため、私の家で預かりました。初めの頃は多少の不満がありました。以前、一度に多くの資料と書籍を運んできた同修がいて、その量を見て、私の恐怖心と不満は一気に湧き上がってきました。その後、心を静めて法を勉強していくと、これらの資料は全て衆生を救う法器であり、衆生を救うことについてはいくら旧勢力でも妨害することはできません。ただ、自分たちの心が正しくなければならないのです。正は必ず邪悪を滅ぼします。このように、正念が強くなると、恐怖心も不満も消えていきました。

 三、真相を伝え、法を実証する

 1999年4月25日、法を実証するため、私は北京に行きました。家に戻った後、警察が家に来ました。「誰が行かせた?」と聞かれ、私は自分が行きたかったから行っただけだと答え、大法の素晴らしさと、病気を治すことができること、また、自身の経験も伝えたところ、相手の警察官は納得してくれて、退職後、自分もやりたいと言いました。

 1999年の「7.20」後、江沢民を首脳とする法輪功に対する全面的な迫害が始まりました。その頃から、私は真相を伝える手紙を送りはじめ、様々な方法で親戚や友人、同修たちを動員して週刊誌やインターネットを通じて、人名や住所を探し集めました。やる気さえあれば、師父がすべてを按排してくださるのです。その頃から今日までの18年間に、私は郵送でそれぞれの階級にいる数えきれないほどの人々に真相という希望を送りました。

 また、家族、近所関係もうまくいきました。

 私はこれまで二度引っ越しました。近所との関係を気にかけているので、皆とは家族の様に接しています。私は常にマンション内(中国では管理者のいないマンションが多い)を掃除しているため、近所の人たちがよく「大丈夫だよ、そちらも仕事とかで忙しいし、私たち、家族みたいなものだから、遠慮しなくてもいいのよ」と言われます。夜になり、廊下や階段の電灯がついていない時は、皆の便利の為、自分で電灯をつけます。近所の人たちもよくしてくれて、餃子を作った日は必ず私の分を持ってきてくれます。エアコンをつける時も、近所の人々が手伝ってくれました。そして、彼らもまた、陰で私を守ってくれているのです。「ある日、警察があなたの事を探していたよ、そんな人は知らない、ここにいないと答えた。みんなであなたの事を守ってあげるね」と近所の人に言われたこともあります。

 子供たちが結婚してからは両親を敬愛し、親孝行するように教えています。時々、娘が帰ってきて、姑の悪口や文句を溢し始めますが、私はすぐに彼女の言葉を遮ります。そして、近所の人たちや同僚に姑の悪口を言うと、却って親孝行ができないと笑われてしまうので、常に恩に感じ、相手の良いところを見ること、まして、相手はあなたより年上で、教育の差もあり、あなたが目上の人を尊敬し、孝行しなければ、いつかあなたの子供たちも自分を敬ってはくれない。自分の行いは次の世代にも影響するものだと子供たちに教えました。私の言葉を聞いた娘は、「分かったわ、お母さん。姑も本当は悪い人じゃないの。本当は私も悪かったのよ」と微笑みました。

 四、病の試練

 私は病を治すために大法を学び始めたのではありませんが、修煉してからは確かに病が全てなくなりました。薬に触れることも、病院に行くこともなく、偶に現れるめまいや胃痛などに関しては、病気と思ったことはなく、師父が体を浄化してくださっていると信じ、体調の事で子供たちに迷惑をかけたこともありません。

 けれども、2回ほど酷い時がありました。1回目は眩暈です。天地がぐるぐると回っている気がして、トイレに行く時ですら壁に寄りかかりながら足を少しずつ前へ動かしていたのです。その日、ちょうど2人の妹が訪ねてきて、私を見た2人は泣き出してしまってすぐに娘に電話しました。娘が来て、血圧を測ってくれたところ、下は120㎜Hg、上は220㎜Hgでした。驚いた娘はどうしても私を病院に連れて行こうとしましたが、自分は修煉者で、何の病気もない、絶対に行かないと伝えると、先に折れた娘は2人の叔母に私の面倒を頼みました。本当の所、その時の念が正しかったので、すぐに体調が治ったのです。

 2回目は、2001年のある日の早朝7時頃の出来事でした。急に激しい咳に襲われて、それから血も吐いたのです。その時は少しも恐怖を感じず、何も考えませんでした、ただ、これは病気ではない、修煉者に病はないという一念を保っていたのです。2時間ほど血を吐いたところで、咳は止まりました。私は始終この一念を保っていたので、病業であろうと、幻であろうとすぐになくなりました。昔はよく咳をしていましたが、それ以来、咳をしたことはありません。まさに師父が言われた通り、悪いことも、良いことも皆良い事なのです。師父に感謝しています!

 20年余りの修煉の中で、師父と大法に対して心が揺らいだことは一度もありません。様々な試練やトラブルに遭いましたが、佛光を浴びているため、心の中は非常に穏やかです。まだたくさんの執着心を取り除いていませんが、私には師父がおられ、大法があり、師と法を信じていれば、きっと法の中で昇華することができるという堅い信念を持っています。無条件に法に同化し、自分を正せば、乗り越えられない苦難はないし、取り除けない執着心もありません!

 師父の慈悲なる済度に感謝いたします! 必ず勇猛邁進して、「三つの事」をやり、決して師父の御恩を忘れません。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作:『精進要旨三』「オーストラリア法会へ」
 [3] 李洪志師父の著作:『シドニー法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/21/352716.html)
 
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