殻を破って新しい人生を始める
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2017年10月10日】私は1998年に修煉を始めました。幼少時代から暴力的な家庭に生まれ育てられた私は、誰も頼れる人がおらず、外でも家の中でも何かあったら自分しか頼れないと、小さい頃からそう思っていました。自分を守るために本当の考えを押し隠し、誰ともトラブルを起こしたくなく、対立やケンカを恐れていました。相手の顔色を窺っては、機嫌を取るために私は自分を嘲笑することさえしました。そして、生きていくためにはどんなに嫌な相手でも、自分の感情を押し隠して、相手に迎合しました。

 物事に私は自分なりの見解を持っていますが、しかし、そのすべてを心の中に留めました。私は体の外に一つの殻を造っており、殻の外側は外部の世界に対する私の態度と行為です。自分を守るために、私の態度と行為は基本的に善良ですが、しかし、善良の中に不満を丸く収める努力をしました。そのなかには気が弱い一面や、迎合する一面、うっぷんなどが含まれています。だから傷つけられたときに、私は突然怒りを爆発しました。私のように気性が穏やかで「お人好し」の人間が、どうして突然そんなに怒り出すのかと、周囲の人は不思議がりました。

 法輪大法に出会ってから、私は表向きには真・善・忍を修煉し、つまり、殻の外側の自分はベストを尽くして大法に同化していますが、私の内心は変わっていません。例えば、もし私が同修の誰かが気に入らないとき、彼に対する不満は全部心の中に収めて、表面上は彼と仲良く付き合っているように見せます。私はそのように十数年間修煉してきており、他人には自分の真実の修煉状態が、全然何も分かっていませんでした。

 慈悲なる師父は私を諦められず、2011年に1回、最近にもう1回、私は殻を破った経験をしました。そのことで修煉とはどんなものか、やっと少し分かったような気がしました。

 2011年のある日、一緒に発正念をしたある同修は「あなたの全身は光を放っていますが、胸の部分に掌大の黒いものがあります。その原因を探したらどうですか」と言われました。その原因は「表面上私はよく修煉できているように見えるが、内心は全く変わっていないのではないか」と私は即座に思いました。

 間もなく、現地に大規模な迫害が発生して、多くの同修が逮捕され、多くの学法チームは活動を停止しました。私が所属する学法チームはまだ集団学法を続けていましたが、そこに歩いて向かうたびに、巨大なプレッシャーを感じ、押しつぶされそうになりました。今回の迫害で私は逮捕されませんでしたが、しかしあのプレッシャーの前で、私はこんなにも弱気になり、十数年間修煉した成果はまるでドロドロした泥のようで、一撃にも堪えられず、一瞬でだめになり、私のこれまでの修煉はなんと空しいものだったのでしょうか。

 長年修煉して、どうして恐れる心がまだそんなに強いのか、と私は真面目に内に向けて探しました。恐れる心を除去することは、ずっと私の修煉の全過程でとても難しく、私が造ったその殻は自分を守ることができないと感じました。

 実は、私は数十年間もその殻に包まれて慣れてしまいました。殻の中の私は安全で、殻は有効に私を守ってくれています。何かが起きたとき、殻の表面は見たところ善良な方法ですべての問題に対処し、自分が受ける傷害を最小限にすることもできますが、いかなることも、いかなる人も、私の内心に触れることはできません。一方、迫害の前で私の殻はこんなにも脆くて、まったく私を守ることができません。これから誰が私を守ってくれるでしょうか? 私の心にはすでに「師父に頼ります」とわかっており、これからは着実に自分を修めるのだ、と自分に言い聞かせました。

 それから、その殻を破るために私は自分に「表裏なく本当の自分を現し、隠さず、遠回りした話し方をしない」ように努力してきましたが、しかし同修たちはまだ私のことを「素直でなく、何かあれば一人で抱えて話さない」と思い、私を相手にしたがらず、私の心も重苦しかったのです。その上、自分がだんだん以前の穏やかさを失って、よく怒り、同修たちの修煉状態も気に食わなくなりました。以前、その殻があったときは、よく同修たちに「優しく、いつもニコニコして、話すときの語気も穏やかだ」と言われていたのですが、今、その殻がなくなったら、逆に忍を守れなくなり、同修たちを見るとき何でも目障りになりました。どうしてでしょうか。私の修煉はネック状態に陥って、向上できず、自分の問題点も分からず、とても苦しみました。

 師父は『精進要旨』に「人間が最も放下し難いものは観念であり、甚だしい者は、偽りの理のために命を投げ出しても変えようとしませんが、この観念自体は後天的に形成されたものです。人は自ら考えることもせず、それどころか、惜しむことなくすべてを投げ出しても、疑問を感じないその考えを自らの考えと思い込み、真理を目にしても排斥してしまいます。実のところ、人間は先天の純真さ以外、一切の観念はみな、後天的に形成されたもので、自分ではないのです。もし、この後天的な観念が強くなってしまうと、この観念が逆に、人間の本当の考えと行ないを支配するようになりますが、この時、人はそれを自分の考えだと思ってしまいます。ほぼ、すべての現代人がこのようになっているのです」[1]とおっしゃいました。

 師父はまた『轉法輪(巻二)』に「ある種の観念が形成されると、人の一生を支配し、その人の考え、ないしその人の喜怒哀楽を左右します。これは後天的に形成されたものです。時間が経つにつれ、この観念は人の思想に溶け込み、本当の自分の脳に溶け込み、人間の性格を形成してしまいます。形成された観念は人間の一生を阻害し制御します。人間の観念は往々にして利己的であるか、または更に良くないものなので、また思想業力も形成され、人間はこうして業力に制御されてしまいます。人間は主元神に支配されているため、主元神が麻痺して観念に取って代わられたら、その人は無条件に降参してしまったことになり、生命はこれらのものに左右されてしまいます」[2]とおっしゃいました。

 どうして向上できないか、自分を変えることができないかについて、師父の上記の説法を読んで私はやっと分かりました。私はずっとその「後天的に形成された自分」を本当の自分だと思ってしまったのです。その「後天的に形成された自分」は、生まれてから少しずつ形成した各種の観念、経験、各種の判断基準と各種の思想業力からなっています。それは私の思想と大脳に溶け込み、私の性格を形成して、喜怒哀楽を表しています。私はずっとそれを本当の自分だと思っていましたが、今日やっと分別が付きました。向上できない、変えることを拒否するのは後天的に形成された自分で、本当の私ではありません。「偽の私」が一重の殻のように「本当の私」を完全に包囲して、私のすべての思想と行為は「偽の私」によって現れ、私のすべての努力は「偽の私」のために存在していました。「偽の私」は利己的で、極端に走り、頑固で変化を拒否するのです。それはただそれ自身のために存在して、「私心」を根本にしてできたものなので、真・善・忍に同化することはあり得ません。

 師父は『轉法輪(巻二)』にまた「業力は真善忍の基準を持っていません。業力が形成されたときの基準で物事を量る時、常人が言うずる賢い人になり、或いは世知に長けている人になりかねません。これは即ち人が修煉している時に様々な思想業力が生じ、作用して修煉を阻害していることです。人にもし業力の阻害がなければ、修煉はあまりに容易いものになります。その業力は何年前のどのような状態の下、どのような道徳の規準に基づいて形成されたのかによって、その基準で物事を量るのです。もしこのようなものが多く形成されたら、人の一生はこれらのものに左右されるのです。形成された観念が判断した良し悪しの通りに認識してしまいます。こうすべきだと思ってしまいますが、本当の自分はなくなりました。本当の自分は形成された善良ではない後天的な観念に取り囲まれ、覆われています。自分の本当の良し悪しを量る基準がなくなるのです」[2]と説かれました。

 今日をきっかけに、私は「偽の私」の本質を見破ったとき、私をずっと覆ってきた殻も自然に壊れて、本当の自分が出てきました。本当の自分は一体どのように振る舞うべきかについて、私はまだあまりよく分かりませんが、しかしそれはきっと無条件に真・善・忍に同化するに違いないと思います。そう考えたとき、私の心境は晴れ晴れとして、今後の人生は希望に満ちたものと感じ、長年私を悩ませたわだかまりが解けたと感じました。

 初めて『精進要旨』「誰のために存在するのか」を勉強したとき、「ある生命がもし、関係している重大な問題に対して、本当にいかなる観念も抱くことなく物事を判断できるならば、その人は真に自らを司ることができます。このような明晰とした考えは智慧であり、一般人のいわゆる聡明さとは異なるものです」[1]の部分を読んだとき、観念とは何か、どうすれば観念を抱かない状態に達することができるか、聡明さと異なる智慧とはどんなものなのかについて、私は困惑しました。今日になって、私はやっと修煉の本質を少しだけ悟りました。

 修煉とは何かについて私はやっと少し分かりました。それはつまり師父がおっしゃった「法を学び心を修め、圓満成就の手段─煉功を加えて、確実に本質から自分を改め、心性を高め、次元を向上させることこそ、真の修煉なのです」[3]でした。

 師父はまたこうおっしゃいました。「もし修煉者が表面では放下しているだけで、内心ではまだ何かを守り固守していて、自分の最も本質的な利益が傷つけられないようにしていれば、皆さんに教えますが、これは偽りの修煉です! 自分の心が動じなければ、少しも向上することができず、これは自らを騙しているのです」 [4]

 ここ20年の修煉を振り返ってみると、今まで自分は偽りの修煉しかやっていないことに、全然気づいていませんでした! 今まで修煉に多くの困惑を抱えたまま、自分の修煉状態がどんな状態かも分からず、毎年ネットで行われる中国大法弟子の交流会に私も参加したいのですが、しかし修煉の中で自分のどこが向上したか、自分の何を変えたかもはっきり分かりませんでした。また、自分の修煉は堅固なものでなく、少しの出来事でも私の心を揺るがし、特に恐れる心はとても強くて、いつもそれに打ち倒されそうでした。

 2002年、私が不当に労働教養所に拘禁されたとき、同修・Aさんと知り合いました。Aさんは出所する前にわざわざ私に会いに来て、「あなたが、もし自我の狭い枠から跳び出すことができたら、どんなに良いでしょう」と言ってくれました。私はその言葉を心に刻みましたが、しかし「自我の狭い枠」とは何か、私はずっと分かりませんでした。よく一緒にいた同修・Bさんも私に「あなたは、いつも傍観者のように全体の中に入らない。全体に溶け込まないといけないのよ」と言ってくれました。「私はずっと皆と一緒にいるではないか、どうして溶け込んでいないというのか」と不思議に思いました。常人の友人・Cさんは未だに「あなたは、どうして真心を見せてくれないの? ずる賢さを止めて少し温厚になってくれないの? どうしてもあなたの本心が掴めないのよ」と言ってきました。私は「私はいつも真心を見せている。私は温厚で善良な人間で、常人であるあなたにどうして私の本心を掴めるのか」と思ったりしました。今になって私はやっと分かりましたが、自分の修煉に問題があることを師父は彼女たちの口を通じて私に教えておられたのでした。

 まるで夢から覚めたように、いま私は今日から修煉を始めたばかりのような気がします。今後、修煉の時間がどれほどあるか、修煉の道に何が起こるかに関わらず、私はただただ「真」を修めたいのです。たとえ次元が低くても、私は本当に自分を修めて、本当に師父のおっしゃった通りに実践していきたいと思います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「誰のために存在するのか」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪(巻二)』
 [3] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「修煉とは何か」
 [4] 李洪志師父の著作:『北米第一回法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/7/2/35024.html)
 
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