文/中国大陸の大法弟子
【明慧日本2017年10月20日】勤務先にある学校からの指示を受け、ある名高い教師の公開授業に出席して来ました。授業内容の1コマは大変印象深いものでした。先生は一つの短篇の文章を教えていました。その後、クラスの生徒全員を見渡しながら「暗記できた人は挙手してください」と言いました。その矢先に80パーセント以上の生徒たちが手を挙げました。先生は適当に生徒Aと生徒Bの2人に暗唱するようにと要求しました。案の定2人とも暗唱ができていました。先生は微笑みながら、「自分の言葉で文章の内容を要約できますか?」とさらに問いかけました。生徒Aは「できません」と首を横に振りましたが、生徒Bはストーリを語るかのように、上手に文章の概要をまとめました。そこで大きな拍手の中で先生とクラスメートが称賛しました。
それを思い出す度に、何かを悟らせてくれている気がします。又、同修の交流文章に書かれている一部の内容を思い出しました。ある勉強会で『轉法輪』にある『灌頂』の節を読み終えたところで、同修Aは左隣にいる同修に、「『灌頂』とはどういう意味ですか?」と尋ねたところ、「知りません!」と答えました。再び右隣にいる同修に「『灌頂』とはどういう意味ですか?」と聞いてみますと、「『灌頂』は功を高くまで付け足すことだ」とためらいなく答えました。やはり本当の意味が分かっていませんでした。
われわれは20年も修煉してきて、『轉法輪』を数百回も、あるいは千回も読んできました。法理はどれぐらい理解しているかはさておき、果たして『轉法輪』における最も表面的な内容が、どれぐらい分かるようになったでしょうか。「灌頂」の意味を分からないのは氷山の一角に過ぎず、「煉功してもなぜ功が伸びないのか?」、「業力の転化形式はどうなっているのか?」、「玄関の移動方向はどうなっているのか?」、「どの箇所で玄関設位するのか?」、「周天の目的は何なのか?」、「大根器の基準には何があるのか?」などなど、実は『轉法輪』にあるすべての講、章、節には、たくさん明白に理解しなければならない内容が詰まっています。
私は数年間もかけて法を暗記してきました。心得としては通読、写し、暗記のどれもが学法形式の一種に過ぎず、それらの形式を通じて大法に対するさらなる認識と理解を得るのが、本来の目的です。
まるで先般言い触れた生徒Aのように、暗記のそのものを重んじ、内容への理解を無視していたならば、流暢に文章を暗唱できていても無意味です。又、前文に挙げられた現象も、勉強会で2人の同修は「灌頂」を勉強していましたが、実は「灌頂」の意味を分かっていません。通読の形式を重視しているものの、内容への理解を無視していたからです。
師父は『轉法輪』中で、「道具だけで見てはならず、その実際の効果を見るべきです」とおっしゃいました。私の理解としては、「道具」は学法の形式を指しています。「実際の効果」は法に対して理解の程度を指しています。もし今後の学法で形式ばかりを重んぜず、法への理解を重要視するようになれば、得られる学法の効果が違ってくるはずです。
近年、自ら法を暗記する方法としては、言葉を一つずつ読み、読みながら理解と暗記を合わせてしていきます。それから句と句の意味を連結させた上で、又読みながら理解することと暗記することを繰り返していきました。往々にして一段落の法は何回か繰り返している内に、暗記できるようになります(長い段落はいくつかの区切を作る)。このような方法ならば理解した上での暗記なので、機械的に暗記しようとせずに、無理がなく自然と覚えるようになります。実は、暗記できたかどうかは表面的な形式に過ぎず、それほど重要ではありません。最も重要なのは法に対する理解です。このような学法は効果的で、『轉法輪』を一通り学んだ後、必ず大法に対する理解がより一層深まります。学法時はもちろん、交流文章を読む時や心性の摩擦が起きた時など、日常生活の中で常に法理が脳裏をよぎるようになります。それは私の修煉を正しい方向へ進むように導いてくださいます。
以上、不適切なところありましたら、慈悲なるご叱正をお願いいたします。