私の嫉妬心
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年1月4日】私は1995年に修煉を始めた古い大法弟子で、修煉を成就したい気持ちがとても強く、何をやっても私心を以て行い、大法の基準で判断していませんでした。「三つのこと」を続けて毎日忙しくしていますが、しかし修煉の本質を掴んでいません。多くの時間を無駄にし、師父が苦心して按排してくださった心性を高める機会を逃しました。慈悲深く私を済度してくださる師父にとても申し訳なく、私の救いを待っている衆生にはもっと申し訳ないと思いました。それ以後、私は着実に修めようと決心して、心性を高める面で大きく向上しました。次に私の体得を皆さんと分かち合いたいと思います。

 師父は『轉法輪』に「嫉妬心という問題はかなり重大です。なぜならそれは、われわれが修煉して圓満成就できるかどうかという問題に直接かかわってくるからです。嫉妬心を無くさなければ、人の修煉した一切の心が脆弱なものになります。ここには一つの決まりがあります。すなわち人間は修煉の中で、嫉妬心を無くさなければ正果を得られないもので、そうしなければ絶対に正果を得ることはできないのです」[1]と語られました。

 嫉妬心は生活のいろいろなところに現れてくると思います。例えば、私は人助けをするとき、出発点はよかったのですが、助けているうちに傲慢になり、相手に自分の意見を押し付けたりしました。相手が私の意見を受け入れたら、今度は顕示心が生じます。助けられた相手がもし私よりも出来が良くなったら、私の心境は複雑になります。その「複雑さ」は嫉妬心そのものだと思います。修煉が良くできた同修を見て、私は表向き「感心しました」と言いますが、しかし内心にはその同修の不足を探しました。後になって、それも嫉妬心だと分かりました。同修の子供が修煉においてとても精進しているのを知れば、家に帰って娘に「あなた、誰それを見てごらん、あの子はとても精進していますよ。あなたは? 」と言います。娘にほかの子供を上回るように願う気持ちも嫉妬心の現れです。

 娘も修煉者です。娘の成績が優秀で、重点大学に進学したのに、卒業後に良い就職先が見つかりませんでした。いろいろな面で私の娘に及ばない近所の子供らが、娘より良い就職先に恵まれるのを見て、私は「あなたたちは今良い就職先が見つかったけど、しかしその良さは一時的なもので、私の娘は修煉者で、あなたたちよりずいぶん素敵です。娘は良い修煉環境を求めるために海外から帰国して私の元に戻ったのです。そうでなかったら、海外できっと多くのお金を儲けたしょう」と思いました。

 また、人に良いことがあるのを見て、嬉しくなるのでなくて嫉妬してしまい、人に困難があるとき同情するのではなく、かえって他人の不幸を喜ぶ感じを覚えます。それは実はすべて嫉妬心なのです!

 私は親孝行をしたいのですが、両親との間に何か遮るものが存在して、本心から両親を愛することができません。掘り下げて探すと、それは嫉妬心だと分かりました。原因は、多くのことにおいて両親は弟の意見をよく聞き入れて、私の意見を採用するときが少ないのです。弟はとても親孝行をしているため、私は心の中で「弟は当然、親孝行をしなければいけません。何故なら、両親のお金はすべて弟にあげたからです」と呟いています。後になってそれも嫉妬心だと私は悟りました。

 周囲の同修のAさんとBさんは不仲です。2人は陰で互いの悪口をそれぞれ私に言ってきたときもあります。悪口を聞いたとき、私の心も動いて、話に乗って一緒に悪口を言ってしまいました。Aさんは地元の協調人で、修煉においてAさんにはたくさん不足があると同修たちは思い、地元に迫害や妨害が起きたら、同修たちはAさんに大きな責任があると愚痴り、私もしそのようにしていました。実は、Aさんはたいへん良くできていて、私は彼女に比べれば雲泥の差です。当時、私も協調人だったのですが、私は表向きにAさんの仕事を支持しながら、実は心の底でAさんを嫉妬していました。

 また、私の強い顕示心も各方面で現われています。例えば、自分の家族が如何に良いか、自分のチームの同修たちが如何に良いかを周囲に誇張します。周囲の同修たちは、話すときも素朴で、聞いていてとても心地良いのです。一方、私の喋り方はふわふわして、言い出したことは誠実でないと同修に注意されたことがあります。最初、その指摘に私は不服でしたが、内に向けて探すと、確かに自分には褒め言葉を聞きたい心理があって、そのために無意識にまず相手をふわふわして褒めていると認めました。一方、気に障る言葉を聞くと不機嫌になって、恨む心が生じます。それはほかでもない名を求める執着心だと思います。

 私は所属の学法チームで協調人の役を担っています。ほかのチームに我がチームの同修があまり精進しないと言われるとき、私は内に向けて探すのでなく、自分のメンツが潰されたと思って、心の中で我がチームの同修たちを責めます。ある日、チームの皆さんと交流をするとき、「あなたは役人でもないので、お高くとまらないでください。私たちがあなたの意見に同意しなかったら、あなたはすぐ不機嫌になります。修煉者として私たちは全体には協力しますが、あなただけに協力する筋はありありません」と皆さんは私に言いました。皆さんの意見に私はとても感謝します。

 また、私には自分自身を実証する心もあります。例えば、誰かに不足を指摘されたら、私は表向きにその意見を受け止めますが、しかし心の中では「自分は間違っていません」と思い、時には弁解もして、その放したくない執着心のために口実を探したりします。

 今、我がチームの同修はほとんどしっかり内に向けて探すことができています。なかなか執着心を探せない場合、交流のときに皆さんに話して、皆さんに手伝ってもらいます。私自身もそのようにして、多くの執着心は集団学法のときに交流を通じて見つかったのです。助けてくれた同修たちに感謝します。

 相手を責めて恨むときに、冷静になって根源を探すと、それは相手が悪いのでもなんでもなく、自分に執着心があるためにそのような事が起きたのだと分かります。修煉において私に向上の機会を作ってくれた相手に感謝します。今の私は、「円満成就」に対して新しい理解をしています。つまり、どんな事においても自分がしたこと、思ったことが大法の基準を満たしたら、きっと円満成就できます。但しそれは口で言うのではなくて、着実にやり遂げなければならないのです。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2017/8/17/349791.html)
 
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