人心の動揺について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年2月2日】大法が広く世に伝わってすでに26年になり、私たちも風雨の中で多くの苦難に満ちた歳月を歩んできました。大法弟子たちは巨大な責任を引き受け、未曾有の試練を経験しています。まさにこの大法は私たちの人生を変え、私たちに生命の真の意義を思索させ始めたのです。

 最近、中国では、人心が動揺する情況がまた現れ始めました。私たちの誰もが、今まで1回も人心を持って物事を判断したことがないとは言い切れません。しかし、最近に現れたいくつかの現象は普遍的で、影響も比較的大きいのです。これらの現象について、修煉者の一員である自分の考えを述べて、皆さんと交流したいと思います。

 正法が推し進められている中で、多くの修煉者は依然として精進しています。しかし、一部の修煉者は怠惰し始めて学法を二の次にし、修煉者を相手に常人の書籍や広告を推し広め、新しい修煉者にひどい妨害をもたらしました。

 もう一つは、法を十分に理解できないため、100パーセント師と法を信じることができていない現象です。正法の終わりを年々に待ち望む中で時間を延々と感じてしまい、待ち望むことは取り除くべき執着だと知りつつ、心では常に期待していました。

 甚だしきに至っては、一部の修煉者はその望みを常人に託しています。皆さん考えてみて下さい。師父はそのような按排をされるでしょうか? これらの人心がしきりに現れてきているので、既成事実になる前に、皆さんと交流したいと思います。

 常人社会の堕落がますますひどくなる中で、多くの人はネットゲームに心を奪われています。そして最近の中国では、偽の経文に惑わされて邪悟してしまった人たちがいて、他の「師父」を拝み、周囲に影響を及ぼしています。なぜこんなに簡単に旧勢力について行ってしまうのでしょうか? しかし、本人たちはまだ認識していません。

 師父の『二十年説法』が発表された後、一部の人はまたも執着心を持って師父の説法を判断し、終るべき正法がまだ終らないのかと仕方なさを感じました。これが人心の再びの現れではありませんか?

 新年が近づくにつれて、さまざまな人心がまた浮かび上がり始めました。「今年で終わるだろうか?」と考えている人がいます。自分はまだ良く修めていないと分かっていながら、以前、自身に課した厳しい要求を前にしてやる気が薄れてきて、師父が毎回の説法で言及される「最後の時間を大切にして」を見ても無感覚になっています。しかし、心を静めて考えてみて下さい。師父はなぜ再三にこの話に言及されるのでしょうか? 師父は誰に対してこれを言われているのでしょうか?

 「この話題を口にすれば、他人に執着として指摘されてしまうのでは?」と恐れているのかもしれませんが、多くの場合、皆はこの疑問を心に抱え込んで誰にも言わず、年月が経つにつれて大法に対して動揺が生じてしまい、ついに大法弟子のいるべき状態から逸れてしまうことになりました。

 これに関して私たちは考えるべきです。この現れの背後には何があるのでしょうか? どんな心が動かされたのでしょうか? あるいは、常に自分自身を修煉者として厳しく律することができず、却って旧勢力の仮相に嵌ってしまったのではないでしょうか? 大法に対して堅い信念を持つことができるかどうか、これは非常に厳重な問題です。

 古代では、修煉は非常に苦しい過程として認識されていて、少しでも心を正しく持つことができなければ再び済度されることは難しくなります。『聊齋志異』(中国の清代の短編小説集。作者は蒲松齢。 怪異文学の最高峰と言われる)の中には、「労山道士」という物語があり、主人公の王七は仙人に弟子入りしましたが、結局長い年月の修行の厳しさに耐え切れず、何も成し遂げないまま諦めて帰ってしまったというストーリーです。実は、修煉はまさに平凡な日常の中で志を錬磨する過程ではありませんか? これは一種の試練ではありませんか? 一時の興味で修煉を始めたものの、最後まで堅持できずにやめてしまった人はどれほどいたでしょうか?

 誰もが知っているように、長年来、健康保持の面においても、他の面においても、大法は数え切れないほどの奇跡を現して下さいました。古今東西において、人々にもっとも多くの奇跡を現した修煉の法門かもしれません。それにもかかわらず、私たちは大法に対してさまざまな不安な気持ちを抱いたりして、本当に師父に申し訳なくてたまりません。実は、師父は随分前に説法の中でこのようにおっしゃいました。「ある時期になると、功が本当に存在するのかどうか、修煉はできるものなのか、果して高い次元へ修煉していけるだろうか、佛は本当に存在しているのか、などについて、あなた自身が紛らわしく思い、迷ったりすることが起きます。将来、あなたに錯覚を与えて、それらすべてが存在しておらず、みんな偽物だ、とあなたに思わせるようなことも起きるかも知れません。動揺するかどうかを試すのです」[1]

 修煉は一つの非常に長い過程で、至る所に試練や関があり、一旦、長引く時間によって執着が露呈すると、淘汰されてしまう可能性もあります。時間は川のように修煉者をふるいにかけ、砂(ダメな者)を落としていきます。どんな妨害が現れても、ほかの人がどのように行動していても、大法に則って行うのがもっとも正しいのです。師父はこのようにおっしゃっています。「『私がどのように処理してもそれが正しいことであり、処理されたものは皆間違っているものである』という師父のこの話を皆さんは覚えておいてください。(拍手) それは宇宙の選択であり、未来の選択だからです」[2]

 私たちの思想、私たちの言動は天地を欺くことができず、自分自身を騙すこともできません。何でも放下できると感じる一方で、なぜか執着心だけは放下できません。師父は「切り捨てることは本当の自己では非ず それはすべて迷い中の痴」[3]とおっしゃっています。最後になればなるほど、私たちは堅実に修煉の道を歩み切るべきです。そして最後のこの時期であればこそ、大法弟子の執着心がもっと露呈されやすいのです。

 修煉の過程で、大法弟子の誰もが法に則って自分を正し、しっかり修めることができれば、天地は証人になってくれます。この過程において、度重なる苦難や躓きは必ずありますが、その都度立ち上がって前へ進むことが精進です。間違いを犯しても、改めればいいのではありませんか? しかし、修煉の機縁を逃せば永遠に失うことになります。修煉は超常的な過程で、常人社会のいかなることとも異なるため、私たちは常人のいわゆる常識に沿って対応してはいけません。これは厳粛なことです。

 円融である法に照らせば、私たちは必ず自分の漏れを見つけることができます。法を学ぶ過程で、ときには自分の認識不足によって大法を疑ってしまう場合があります。特に新しい修煉者によくみられます。ほかの大法弟子の説明を聞けば納得がいかず、自分では理解できず、師父もはっきりと説かれていない時がよくあります。もちろん、修煉の過程で疑問が生じることはごく正常なことです。しかし、そのせいで大法に対する堅い信念さえも薄れていってはいけません。機縁は一度しかなく、逃せば二度とありません。実際、私たちが真に修煉できるかどうかは、すべてこの心にかかっています。

 いずれ、時間はすべての答えを出してくれます。私たちは悲劇の再演を望みません。動揺している人たちが理性が欠けていると思う一方、「なぜ私はこのような現象に出遭ったのか? 自分にも何かの漏れがあるのではないか? どのように対応すれば良いのか?」と自分自身に問いかけるべきです。 

 師父はこのようにおっしゃっています。「特に、苦痛の中で耐えることのできなくなった学習者に、この世を離れて早く圓満成就したいという考えが最も生じやすいのですが、そのため邪悪によって隙につけ入られてしまいます。皆さんはすでに最も困難な時期を乗り越えてきたのですが、最後の執着の中、くれぐれも心を放下してください。弟子の皆さんの苦痛はわたしにはすべて分かっています。実は、皆さん自身よりもわたしは皆さんのことを大切にしているのです!」[4]

 「巨難の中で必ず堅い意志で 精進の決意は変わらず」[5]。歳月は一時の情熱を薄めますが、永久不変の堅い信念を押し流すことはできません。今日の私たちの修煉形式は過去と異なりますが、心性に対する要求は厳密なままです。風は蒲公英の春を持ち去り、秋のチョウの夢の世界を吹き散らしました。私たちはぬかるんで歩きにくい道を歩み、手に届きそうな虹を追いかける際、どうしても視線が雲に遮られてしまいます。過去を振り返り、雨が依然降っていて、足跡が依然伸びていて、目に涙が浮び、どうしても果てが見えません。すべてのすべては試練ですので、私たちは確固たる正念を持ち続けるしかありません。

 今日はここまでにします。以上は個人的な感想で、適切でない部分があれば、同修の慈悲なるご指摘をお願いします。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『轉法輪
 [2] 李洪志師父の著作:『二〇〇三年元宵節での説法』
 [3] 李洪志師父の著作:『洪吟二』「執着を取り除く」
 [4] 李洪志師父の著作:『精進要旨二』「最後の執着を取り除こう」
 [5] 李洪志師父の著作:『洪吟二』「堅定」

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/1/25/360023.html)
 
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