闘争心について
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文/中国の大法弟子

 【明慧日本2018年2月24日】師父は『轉法輪』の中で、何度も闘争心について語られたことがあります。自分は常人の中でいつも損をしているため、何事も争う事なく譲るタイプなので、闘争心において淡泊であると思っていました。最近気づいたことですが、陰で不平をこぼすことや心のバランスが取れないこと、他人のうわさ話をすること、他人のせいにすること、その事について報復すること等々が、すべて闘争心の現れだと気づきました。

 闘争心を取り除かなければ、どのような深刻な結果をもたらすのでしょうか? 私は心を静めて法を学び、次のことを悟りました。闘争心を取り除かなければ修煉者とは言えず、病気も回復できず、嫉妬心を増強させ、心性を高めることもできず、功も伸びないし、魔性を助長し、また迫害される要因になるため非常に危険で、私達が想像することができないことであり、注意しなければなりません。

 一、闘争心を取り除かなければ、ずっと常人のままである

 多くの人は修煉する前は負けず嫌いな性格を持ち、あらゆる事にも耐えることが出来ず、過度なストレスが溜まり、心身が疲れきってしまいます。その結果、病気になり、業力が積み重なってしまうことになります。

 師父はこのように説かれています。「常人はこの理が悟れないので、利益をめぐって争ったり、闘ったりするわけです」[1]。「常人の社会では、名誉や利益のために、人と奪い合い、争い合ったりして、睡眠も食事もろくに取れず、身体をひどく傷めており、他の空間から見ると、あなたの身体は骨まで黒くなっています」[1]。「人が生きている間に、個人の利益のために争えば、多くの悪いことをし、たくさんの借りをつくることになります」[1]

 ある居士は、十年間真面目に修行しましたが、その娘が癌を患ってしまい、一家は毎日悲しみに暮れる生活になりました。居士はどうしてこのような事が起きたのかと考えても納得がいかず、自分の師に尋ねました。「お前はよくかんしゃくを起こし、人の心を傷つけるような話をよくするから、佛と菩薩はいくら神通力があっても、助けるわけにはいかない。自分がつくった業は自分で返すしかない」と師は諭しました。

 常人はわれ先にと争い、陰に陽に(いんにように・あるときはこっそりと、あるときは表立って)闘い、互いに奪い合って、意地のために生きています。しかし、修煉者として分からなければならないのは、宇宙の特性の中には「忍」が含まれており、争いではありません。修煉者として、もし争ったり闘ったりして気性が激しく、思うままにかんしゃくを起こせば常人にも及びません。ですから、「闘争心」を取り除かなければ、学法煉功しても全て無駄になります。

 二、闘争心を取り除かなければ、病気は治らない

 亡くなった同修がおり、恐らく闘争心と関係があることをまったく意識していなかったかも知れません。およそ闘争心の強い人はみんな短気で、かんしゃくを起こしやすく、怨恨心が強い、怒りが激しい、不公平な扱いをされると黙っておられず、すぐに喧嘩をかいます。「闘争心」が強いということは「人心」が強いことであり、争えば常人と同じようになり、常に争えば煉功者ではなくなります。師父は勝手に常人のために業を消すことができないので、闘争心の強い人は往々にして居丈高(いたけだか・「威丈高」とも書き、人に対して威圧的な態度をとるさま)な顔をし、病気に見舞われます。

 商売は「温和から財が生まれ、土のような豊かな徳を積んでおけば、商売が繁盛し、はじめて財産を積み上げることができる」とよく言います。ある同修は商売をしていましたが、心性を修めることを重んぜず、客と口論する事が多く、また人を罵ったりしてその後癌を患ってしまいました。多くの同修が彼女のために発正念をしましたが、結局、その同修は骨と皮になり亡くなりました。もう1人の同修は退職する前に、勤務先の指導者を務めたことがあり、誰かに指摘されると彼女はすぐに反論し、相手は善意をもって注意したにもかかわらず一度も受け入れたことがありませんでした。その後、その同修は癌を患って、修煉しなくなり、娘と喧嘩した翌日に亡くなりました。

 普段の生活の中で大声で話すことや、気性が荒い、負けず嫌い、よく人を罵るなどは、みんな闘争心の現れであり、修煉者として直ちに取り除かなければ、いつまで経っても闘争心に制御され支配されます。漢方医学の言い方によれば、腹が立つと肝臓をこわし、怒りは肺をこわすそうです。いつも怒っていれば、間違いなく体に異常をきたします。

 師父はこのように説かれています。「もし本当に常人の病気を根治してあげることができるとして、修煉しない常人がここから出て、何の病気もなくなったとしましょう。でもその人が相変わらず常人のままで、私利私欲のために人と争ったりするようでしたら、彼の業力をどうして勝手に取り除いてあげられるのですか? そのようなことは絶対に許されません」[1]。「長年練功をしていても、病気が治らない人がいるのはなぜでしょうか? 気功は修煉であり、超常のものなので、常人の中の体操とは違い、心性を重んじないかぎり病気も治らなければ、功も伸びないのです」[1]

 三、闘争心を取り除かなければ、清浄心は現れない

 私達の理解では執着心を放下することにより、心が淡泊になり、はじめて定に至り知恵が開くのです。「定力の深さは次元の現われです」[1]。意地を張り、負けず嫌いな心をなくさなければ、何かあった場合、現れた一念は争うに違いありません。そうすると、トラブルの前で守りきれず我慢できなくなり、業力は消去されず、心性を高めることもできず、心も空にならず、清浄心も現れません。「浄」という字は、個人の理解ですが、右側の「争う」を取り除いて、はじめて純粋で穏やかになります。

 もし、私達が昼間に誰かと喧嘩すれば、一日中心が静かにならずイライラするばかりで、夜の座禅の時に入定できるはずがありません。何事においても淡泊になり、世の中で争わなくなれば、正しい道に入ります。常人の中のすべてのことを淡々と見られるようになると、自然と争わなくなります。心は「空」に至り、「清浄」になります。

 四、闘争心を取り除かなければ、功はまったく伸びない

 私達の理解では、修煉の中で心性を修めることが最も肝心なことで、心性を高めれば功が伸びます。闘争心を取り除かなければ、人に指摘されたくないと争ったり、弁解したり、怒ったり、喧嘩したりし、甚だしきに至っては台無しにさせます。一つの関一つの難の中で、試練の中で心性が向上しなければ、争っている中に落ちていきます。忍耐しておらず、多くの徳がなければ、道を悟れず、功はどのようにして向上するのでしょうか。

 師父はこのように説かれています。「常人の中での名誉や利益のために人と争ったりします。そういう人の功は伸びるでしょうか? 絶対に伸びるはずがありませんし、またその人の病気も同じ原因で治りません」[1]。「私利私欲のために争っていながら、功を伸ばそうとするなど、とんでもありません! それでは常人と変わりないではありませんか? どうして功を伸ばせるはずがありましょうか? ですから、心性の修煉を大切にしてこそはじめて功が伸びるし、次元を高めることができるのです」[1]。「小さなことも乗り越えられず、かんしゃくを起こしたりしていて、功を伸ばせるとでも思っているのですか」[1]

 師父はあるストーリーを語られました。ある人はもともと心性が高いため、元嬰まで修煉できました。ある日、彼女は他人と喧嘩となり激しくなっていくうちに、人を罵る言葉もだんだん酷くなって、最後に元嬰は溶けてしまいました。「一度罵ると、心性が堕ち、功もなくなってしまいます」[1]と師父は説かれました。

 昔から「一度怒らすと、林を燃やしてしまう程の功徳を失い、百万の防御の扉は瞬時に潰れてしまう」という諺があります。これは闘争、激怒の後の恐ろしさの例えであり、私達はくれぐれも用心しなければなりません。闘争心を取り除かなければ、仮に天国に行けば佛とトラブルになるかもしれず、天国の世界はこのような生命を受け入れるはずがありません。

 五、闘争心を取り除かなければ、迫害されやすい

 闘争心を取り除かなければ、修煉者の間で互いに認めようとせず、嫉妬し、他人のことばかりあげつらい、隔たりが起き相手のことを台無しにさせ、内訌(ないこう・うちわもめ。内紛)や混乱を引き起こし、その破壊力は極めて大きいものです。これらの内部闘争やうちわもめ、内紛による損失、迫害、淘汰のすべては、旧勢力が極めて細かく按排したものです。着実に心性を修めず、闘争心と嫉妬心が強い修煉状態は非常に危険です。

 他の空間の邪悪が虎視眈々とうかがっている中で、中国の迫害の環境下で内部で暗闘することは、修煉ができておらず、衆生を救えないだけでなく、全体的に迫害を招いてしまう可能性があります。昨年10月、双城の五十数人の大法弟子が同時に不当に連行されました。この件について、私たちはもっと深く考えるべきです。

 「双城の協調人は能力があり、プロジェクトを立派にこなしておりますが、しかし、お互いに認めようとしませんでした。関わっている同修は互いに暗闘し、嫉妬心と党文化の考え方の様式で、別々にグループを作って互いに譲らず排斥し合って、長期にわたり対峙する状態に陥り、甚だしきに至ってはお互いに攻撃し、ひどい内部損失をもたらしました。旧勢力はこのような人心や多くの大法弟子が自分を修めず、外に向けて探し、強い嫉妬心を抱いてお互いに破壊しようとし、まったく大法弟子らしくない行為を見て、それを口実にして手を下しました」。(『明慧週刊第829号』より)

 私達は迫害の真相を伝える中で、常に内に向けて探し、闘争心、嫉妬心などの雑念を取り除き、一人一人がすべて法の中で自分を修め、互いに誠意を持って寛容な態度で譲り合えば、全体はキラキラとして透明で金剛のように破壊することは不可能になるに違いありません。旧勢力も敬服し、迫害する口実もなくなり、迫害されることはなおさらあり得ません。もし、私達が内部で闘争すれば、まとまりのない砂のように法の力がありません。考えてみれば、外部環境は極めて悪く、内部闘争も激しく、互いに排斥してまとまりのない軍隊や、砲煙弾雨の中で進行するのと同じで、後の結果は想像できるでしょう。

 師父はこのように説かれています。「真に道を修める人同士でも互いに認めないことがありますが、闘争心を無くさなければ、嫉妬心が生じやすいのです」[1]

 六、闘争心を取り除かなければ、魔性が増強される

 闘争心を取り除かなければ、人心は佛性と魔性の中で必死にもがき、生きることにも大変疲れます。嫉妬する、気が狂う、悪辣な行為をするの類はすべて魔性の現れで、闘争心と関係があります。好んで戦う人こそが不満を感じ、他人のせいにしてトラブルを挑発し、内心で恨みます。根本から正さなければ、魔性を放任し魔性はさらに膨らみ、逆に人を制約して心から魔が生じる状態になり、人心が魔変する可能性もあります。

 闘争心が無くなると、失と得、正しいか間違いか、善し悪しに対しても気にかけなくなります。自然に心理状態も穏やかになり、慈悲で寛容になります。闘い争いもせず、邪念がなく、無私の境地に達すれば魔性の依存する環境も失われます。

 師父はこのように説かれています。「常人には、みな魔性と佛性があって、考えにずれが生じれば、魔性がただちに作用するのです」[2]。「人の魔性とは悪であり、殺生、盗み、利己、邪念、悪事をそそのかすこと、デマの煽動、嫉妬、悪らつなこと、発狂、怠惰、乱倫等々として現れるのです」[3]。「修煉者が修めて魔性を取り除かなければ─功は大きく乱れて得ることができず、または魔道に入るのです」[3]

 師父はまた次のように説かれています。「それを捨てないかぎり、ずっとこんな状態が続き、何年経ってもその次元から抜け出せません。とうとう煉功もできなくなり、この物理的な身体も耐えられなくなります。精力の消耗があまりにも大きいので、下手をすると廃人になるかも知れません」[1]

 七、闘争心を認識する

 闘争心は深く隠れており気づきにくく、源まで遡ればようやく気付きます。例えば、他人に反論すること、極力説得すること、強く興奮すること、指摘されたくないこと、触れたくないこと、指摘されたらすぐ爆発すること、お互いに攻撃すること、自分を強調すること、自分を実証すること、烈火のごとく怒ること、相手を圧倒すること、何度も弁解すること、等々の正しくない心がすべて闘争心から生じたものです。なぜ争うのでしょうか? 自分が正しい、自分の潔白、自分の能力、自分の無実を証明したいからです。

 それから、闘争心は他の空間でどのように現れるのでしょうか? 生きている生命体として現れ、醜い形相をした殺人鬼のような負の霊体です。それは世々生々、私達の主元神について私達を主宰して威張ったり、奪い争ったりして疲れさせ無数の業を作らせました。

 それが存在する限り、トラブルの中でそれが必ず跳び出して、烈火のごとく怒って争い、嫉妬して悪辣になります。多くの場合は、私達は自分が争っているのだと勘違いしますが、実は、その邪悪な霊体が私達を憤慨させ、コントロールできないように心性を守る事ができないように、修煉して得た功を台無しにさせようとしています。従って、私達は正念と理性を失えば、直ちにそれと一緒に魔道に入ってしまいます。

 私達がこの闘争心を認識できなければ、それを見極めず取り除かない限り、それはずっと私達について、私達の考えと身体を支配します。

 八、多く学法し、よりよく法を理解する

 師父はこのように説かれています。「心の中でいつも人とあれこれ争うことばかり考えているのであれば、問題が起きると、必ず相手と真っ向からやり合うに違いありません。ですから、何かトラブルに遭った時こそ、自分自身の黒い物質を白い物質に、つまり徳に転化させる時だ、とわたしは言うのです」[1]。「常人のこの複雑な環境の中で、あなたは醒めています。それとはっきり分かっていながら利益の面において損を蒙り、また他人に利益を侵された時、あなたは他人のように争ったり闘ったりはしません。いろいろな心性の邪魔の中で、あなたは損を蒙っています。あなたはこのような厳しい環境の中で、意志を錬磨し、心性を向上させ、常人のいろいろな良くない思想に影響されながらも、そこから抜け出すことができるのです」[1]

 師父は「一挙四得」[4]と「失わないものは得られず」[1]の法理を語られたことがあります。自分がよくトラブルの前に現れた第一念は、やはり「争う」であることに気づきました。争いが良くないと知っているにも関わらず、心の中では認めようとせずひそかに抵抗し、実はこれはやはり闘争心の働きでした。これは闘争心に支配された証拠です。常に闘争心を排斥すれば、それがだんだんと弱まって消滅されます。

 「他人が自分のものを持って行く時、本当に自分の黒い業力を取り除いているのであり、喜ぶはずですが、どうして争うのでしょうか? 以前、自分は学法する時、机上の空論のように目で字を読んでいますが、物質的な変化の角度から理解したことがなく、信じているのかそれとも信じていないのかのようで、時には忍ができたり、また時には争ったりもします。常人なら、生活の原動力は名と利ですが、修煉者は名利に対する追求を放棄して永久に解脱することなのに、どうして常人と争うのでしょうか? ずっと人間のままでいることを争うのでしょうか?」と自分は理解しています。

 九、観念を変え、無私であれば争わず、無我であれば闘わず

 つまり、心の中に「私」があるからこそ争うのです。自我が強ければ強いほど闘争心も激しいのです。無私無我の境地に達すると争いの主体が無くなります。欲望がなく求めるものがなければ、争いの対象も無くなります。従って、内に向けて探し、「私」と「我」の主体を取り除き、執着する欲望の対象を取り除けば、自然と争わなくなります。

 私達はトラブルに遇う時、最初の肝心な一念が表面の出来事と人物から抜け出して、その中に陥らなければ、争うことはないはずです。例えば、仕事の量が多くて難度も高いにもかかわらず、最も安い給料をもらったとします。給料の明細を見た時、「私はいじめられている」、「私は納得できない」、「私は不満を感じている」などの観念に常人なら左右されますが、修煉者の私達はそうであってはいけません。実は、争うことは「私」を争っており、私の「名、利、情」を争っているのです。

 トラブルから抜け出せば、本当の自分を見つける事ができ、心が迷わず、道(どう)の中に入り、動揺しなくなり、まったく争わなくなります。佛から見ると、世の中は乱れており、真っ黒で、言い争う価値すらありません。

 ですから、無私であれば争わず、無我であれば闘わず、争う心が無ければ、心は清浄になり、闘う心が無ければ、心は自ずと高潔になります!!

 個人の愚見ですが、慈悲なるご指摘を願います。

 注:
 [1] 李洪志師父の著作: 『轉法輪』
 [2] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「法定」
 [3] 李洪志師父の著作: 『精進要旨』「佛性と魔性」
 [4] 李洪志師父の著作: 『シドニー法会での説法』

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/2/3/360370.html)
 
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