生命は正法と繋がってこそ 意義がある
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文/黒竜江省の大法弟子

 【明慧日本2018年4月22日】私は1997年の17才の時、法を得ました。 師父に大法弟子として選ばれて、無数の神達が羨ましがる生命になり、とても誇らしく思っています! 同時に自分が大法弟子としての責任をしかっり果たしていないことをとても恥ずかしく思っています。しかし、もう恥ずかしがる時間もなく、常に自分に「私は大法弟子だ」と気づかせて、責任と使命を忘れず、最後の道をしっかり歩みたいと思っています。

 振り返ってみると、青年弟子は、両親の世話をしながら、幼い同修をも正しい道に導かなければならず、また仕事をして生活を維持しなければなりません。周りの友人は殆どが常人で、環境の影響や、時間も常に足りない等、年配の同修より困難が大きいと感じています。それに、生活や仕事の中で触れている現代の文芸、芸術、服装、魔性などに毎日触れている青年弟子にとっては、あらゆるものが試練になり、情を断ち切ることは難しいのです。

 しかし、私は世間の名利を断ち切るのはそれ程難しくないと思っています。劉禹錫の『陋室銘』や諸葛亮の『戒子書』には、人は名利に淡泊になれば、寧静致遠(ねいせいちえん・ 誠実に、こつこつと努力を続ければ、遠くにある目的に到達できる)の境地に到着できると述べられています。少し良識のある常人さえ名利に執着しないこともあるので、私達には何ものでもありません。しかし、情から表れた曖昧さを即時に断ち切ることは難しいのです。

 情について話したいと思います。古今東西には人間の真情の演繹(えんえき・一定の前提から論理規則に基づいて必然的に結論を導き出すことがたくさんあり、「情」は大法弟子が情の関を乗り越える時に紛らわしくなります。例えば、中国古代の織姫彦星の物語、典型的な梁祝(梁山伯と祝英台)、涙で万里の長城を倒した秦朝の孟姜女の物語などです。私が情の関を乗り越える時、執着心が強烈な時、自分が間違っているとは思えず、なぜ情を斬り捨てなければならないのかと考えてしまいます! 実は、真情も情なのです。歴史上の真情の演繹は人に見せるものです。情であれば、愛も憎しみもあり、好きも嫌いもあります。但し、私達は常人から抜け出す必要があります。情は遠慮なく断ち切るべきです! 情を断ち切ってようやく慈悲が生まれ、誰にでも善をもって、優しく接することができます。

 情の苦しさをなかなか断ち切ることができない場合、私は師父の「何を恐れるのか、頭が落ちても身体はまだ座禅している」[1]を思い出します。この同修の不動の意志から、修煉の差ではなく、根源の問題に気づきました。自分が修煉を続けるか、修煉者の基準に従うか従わないかの問題です。情を断ち切る過程は苦しいのですが、苦しさを感じるのは情を断ち切っていないからです。苦しさから情の根源を見つけて取り除き超越して、大自在を修めることができます。

 もちろん情というものは他の空間でも生きています。「薄情」とは世間一般では貶す言葉です。人間はよく、情け知らずは人の品格が悪いと評価しています。私が情を断ち切る時、このような考えはまた私に影響を与えてしまい、情を断ち切るのは自分が「薄情」であり、断ち切ることは間違っていると考えてしまいます。私達は既に情を断ち切ったあと、「慈悲」という、より高尚な境界に昇華することができることを知っています。

 少し時間が経ちましたが、同修達がウィチャットで行なっていた文学創作や音楽創作の内容には多くの「情」が含まれていました。また、常人の歌を聴いたり、携帯に歌関連のアプリをインストールしていました。常人の歌は実は「情」を歌っています。常人の歌には、情だけでなく、業力も含まれています。また常人の歌の作詞者、作曲者は大法に対してどういう態度なのか? これは厳粛な問題ではないでしょうか? 師父は「われわれ煉功者は、身体の浄化を目指しているのではありませんか? 絶えず身体を浄化して、絶えず高い次元へ進んで行きます。なのに、あなたが身体の中にそんなものを吸い込むのは、まったく逆行しているのではないでしょうか? そのうえ、それは一種の強い欲望でもあります」[2] と説かれました。この趣味のある同修は気をつけたほうがいいのです。

 最近は特に生命の輪廻転生の苦しみと今世での責任と使命感を感じています。私は小さい頃から言い表せない悲しみを感じていました。普通、子供の頃は「なんの心配事もなく、自由自在」と言われていますが、私は理由もなく泣いていました。数日前に、ある同修とこの話をしたら、同修は、「あなたという生命は、歴史での経歴が滄桑(※・そうそう)なのですね」と言われました。この話は、私の心に響きました! 私だけではなく、大法弟子だけでなく、世間のすべての人間は滄桑の歳月の中で、輪廻転生のなかで苦しみながら、大法の伝出を待ち、救われることを待っていたのではないでしょうか。

 私は自分という生命が歴史の輪廻転生の中で、何を経験したか分かりませんが、不可解な涙は私に何かを伝えています。今世の三十数年の様々な事を振り返ると、いつが一番幸せだったのか? ひどく暑い夏に、私と姉は毎日出かけて法輪功の真相電話をかけ、直接三退を勧めていた夏休みが一番幸せでした! 数年前は子供がまだ小さいので、1人で小さい子供を背負って、ある広場で電話をかけて、直接三退を勧めていた時が一番幸せでした! また今日でも、その広場は私にとって、尋常でないストーリーをいきいきと記憶しています。寒い冬に私は暖かい湯たんぽを抱きながら、寒い車の中で電話をかけて、直接三退を勧め、衆生が救われた時、三退の名簿を見る時、心の中では一番幸せを感じました! その幸せは心の奥からの喜びで、まるで枯渇した心から湧き出した甘露のように生命を潤してくれました。いつが一番幸せなのか、衆生を救う時が私という生命にとって、一番偉大で、一番有意義で、一番幸せな時でした。

 最近、いつもある一言が耳の辺りで響きます。それは、1999年に広州で開かれた特殊な記者会見での動画での一言です。「生命は正法と繋がっていてこそ 意義がある」。私は常に自分に言い聞かせています。「私は大法弟子です。生命は正法と繋がっているこそ 意義がある」と。

 師父に叩頭して、お礼を申し上げます!

 ※ 滄桑(そうそう):滄海(大海原)と桑田(桑畑)のこと。青い大海原だった所が桑畑になる。世の中の移り変わりの激しさをいう)

 注:
 [1] 李洪志師父の著作:『精進要旨』「白日の下にさらけ出す」
 [2] 李洪志師父の著作:『轉法輪

 
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2018/4/9/363873.html)
 
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