「処方する」のではなく、共に内に向けて探すべきだ
文╱中国の大法弟子
【明慧日本2018年8月21日】師父は「大法弟子は一つの全体を成しています」[1] と説かれました。ですから、大法弟子が迫害を受けたら、同修が無私に助けることは極めて貴重なことです。しかし、どう助けたらいいか、それは私達が注意すべきところではないかと思います。
よくこのような光景を目にします。助けを提供する同修は漢方医のように、「見る、嗅ぐ、問う、手で触る」の四診をしてから、Aさん、Bさん、Cさん、Dさんが「処方」をし始めます。迫害を受けた同修はこの見解も正しい、あの見解も一理があり、どっちの考えも悪くないと思い、しかし、誰の言うことを聞いたらいいか分かりません。結局、「病症」が依然と存在し、場合によって、さらに重くなることもあるのです。
問題はどこにあるのでしょうか? 個人的な考えでは、問題の一つは助けを提供する同修が自分を修めることを忘れ、すべての本質的なことは師父がなされており、「修は己にありて、功は師父にあり」[2] ということを忘れてしまったのではないかと思います。もし、私達が迫害された同修を全体の一員としてみなし、他人の問題を見て逆に自らを修め、皆で一緒に内に向けて探し、善意で互いに注意を促すことができれば、師父はきっと私達にそれぞれ高めるべき所を気付かせてくださるでしょう。そうすれば、「病根」が取り除かれ、全体的に高まっていくことになります。
少しの認識です。不適切なところがあれば、同修たちのご叱正をお願いします。合掌。
注:
[1] 李洪志師父の経文:『米国中部法会での説法』
[2] 李洪志師父の著作:『轉法輪』